今再び、高島善哉について

 1999年、25歳になったころに私は「氷点下の思潮」というWEB個人誌を立ち上げた。その当時、「高島善哉先生のこと」という短い記事を書いているので先ずお読みいただきたい。

「高島善哉先生のこと」

 学生の頃、神田の古本屋で偶然手にとった本が高島善哉の「時代に挑む社会科学」だった。開いてみてほんの数行読み、それが計り知れないほどすぐれた評論であり、自分が必要としていた“ことば”であると実感した。以来、高島善哉の本に夢中になり手に入るものはすべて読みあさった。

 これもまた偶然ではあるのだが、本にある著者紹介に高島善哉は一橋大学の教授をしていたとあった。私の祖父は一橋大学の卒業生なのである。祖父に高島善哉を知っているかと聞くと、当時、学生の間では大変人気があり、そして信頼されていた先生だと教えられた。祖父はちょうど学徒出陣の時代に学生時代をおくっている。あの学徒出陣の直前、学内で発行されていた新聞に高島善哉のことばがあった。その新聞は祖父に見せてもらったものであるのだが、高島善哉は誌面で戦地に赴かなければならない学生へ語りかけていた。「生きて帰れ、諸君の未来は戦後にある」と。

 文面からは、高島善哉の戦争への怒りと、学生を戦地へ送らなければならないやりきれなさが見てとれた。時代が時代なだけに、直接的な表現が出来はしない。実際、彼自身すでに軍部から目をつけられていた人物でもあった。死んで来いという狂気な命令を下す軍に対しての、精一杯のことばが「生きて帰れ」であった。恐らく、学生は皆、そこに含まれている総ての意味と感情を読み取ったろう。50年を経て、戦争を知らない私が読み取ったのだから。

 戦争時代をくぐり抜けた社会科学者高島善哉の戦後の研究はすべて、平和とは何かということを念頭においたものと私には思われる。

そして高島善哉のことばは、生涯私の胸に響き続けるであろう。

「もし、現代が国際化の時代であるとするならば、何故国際化は人類の平和につながらないのであろうか。もし現代が情報化の時代であるとするならば、何故情報の豊富が人々の心をこのようにかき乱すのであろうか。もし現代がハイ・テクノロジーの時代だとするならば、何故技術の進歩がこのように人々の肉体を疲労させるのであろうか。」
「地球の裏側が夜であるように、平和の裏側は戦争である。あたかも防衛が攻撃との双生児であるように、平和は今、戦争との双生児である。これはまさしく全人類的なグローバルな危機ではなくて何であろう。」

 以上が「高島善哉先生のこと」全文である。最後の引用は岩波書店「時代に挑む社会科学」からであり、高島はこの後にこう続けている。『この事実を否認できるような現代人は、おそらく現代人の意識を持たない人種だけである』と。なぜ今再び私が高島善哉に注目するのかと言えば、現在の日本では、高島の言う「現代人の意識を持たない人種」が溢れかえっていると思えてならないからである。

 高島善哉は1986年に出版された「時代に挑む社会科学」のまえがきに、『口では自由とか民主主義とか人権とか個性化とか男女同権とか、いろいろ取り沙汰されても、実践では事も無げに無視されている』と記している。最近、元総理の女性蔑視とも受け取れる発言が話題になったが、それを批判する声も、その解決策も表面的なものだという印象を私は受けた。無視され続け四半世紀が経過してしまったのだろう。

 このような状況で、はたして現在の科学は時代に挑んでいると言えるだろうかと考えたとき、再び高島の言葉が脳裏に浮かぶのである。高島によれば、市民制社会とは市民の社会であり、それは同時に資本の社会であり、さらに同時に労働の社会でもある。それを歴史的な表現にすれば、「市民の時代」は「資本の時代」であり「労働の時代」となる。であれば、「時代に挑む」とは、市民、資本、労働の在り方を問うことではないだろうか。まるで戦争の足音が聞こえてくるような殺伐とした今、まさに欠けているものであり、最も必要なことであると思えてならないのである。

浦添西海岸にて(2021年初作品)

島へ投げ込まれる無数の石礫
島民たちが
掻き集めては海へと放る

不自然な波紋に視界が揺らぎ
いつの間にか海は
石礫で埋め尽くされる

遠くなった海に
言語を失くし
見失った空に
思考が崩れる

ずらさぬように
生き残った視線を集めて
水平線に重ねてみる

ずれないように
瞳孔に風を吸い込む

SARS-CoV-2(新型コロナウイルス)|沖縄で心配すること

 3月30日、ブログサイト「路地裏のランナー」に「SARS-CoV-2(新型コロナウイルス)について|現状と対策、推測メモ」を書いた。その内容と重複してしまう部分もあるかもしれないが、今回は沖縄で感じていること、出来るであろうことを書き残しておきたい。

 3月11日の琉球新報の記事に「新型コロナウイルス流行なら沖縄12万人発症 厚労省の算定式で推計 対策講じれば軽減も」というものがあった。
 この記事によれば、『新型コロナウイルス感染症の流行ピークの患者数を推計するため提示した計算式によると、沖縄県内で流行した場合、流行が終息するまでに約12万人が発症し、約2万人が入院、約2千人が重症化するとの数値が導き出される』という。恐ろしい内容だが、この数値を出したのは厚労省である。
 一方、県が季節性インフルエンザよりも少し高い感染力を想定して算出した数値では、最も多い日で外来患者4685人、入院患者2149人、重症患者は73人となっている。しかし県内全体の急性期病床は現在6292床で、稼働率は約90%のため、空いているのは600床ほどだという。この時点で全く足りていない。
 この記事が書かれたころから、東京や大阪で爆発的に感染者が増えた。「五輪の延期が発表された途端に感染者数が増えた」ことに疑念を抱く人も多いようだが、恐らくそれはない。横浜市立大学の佐藤教授は、3月9日までと3月10日以降と比較すると10倍の感染率で感染連鎖が起きているとし、『これまで日本国内で主として確認されていたウイルスと異なる亜種(欧州亜種)の2次感染、3次感染が発生していると考えるべき』だとしている。
 さて琉球新報の記事は3月11日であるから、厚生省や沖縄県が出した予測は、10倍の感染率が顕著になる前に算出されたものである。亜種のコロナウイルスの感染力は、沖縄県が算出の基にした「インフルエンザよりも少し高い感染力」どころではないのは明白である。だとすれば、600床などあっという間に塞がってしまう。

 今、国の取る対策が地方自治体のすべてをカバーできている状態とは言えない。だとすれば、各自治体、出来るだけのことは自分たちでやっておくべきだと考える。
 沖縄県の場合、病床が少ないのは明白である。感染し肺炎を発症した人の手記を見ると、インフルエンザどころの苦しみではないことが伺える。それでも呼吸器疾患の場合は「軽症」扱いである。「軽症」だから自宅で療養、というレベルではなさそうである。いつになるかは分からないが、一般の医療機関でアビガンが処方されるようになったとしても、感染爆発が起きれば、入院が必要な患者は多数出てくるはずである。
 暑い季節になればウイルスの勢いは弱まるのではないかと期待する声もあるけれども、ブルキナファソなど赤道に近い地域でも感染者が増えているし、熱帯のシンガポールでも増えていることを考えると、暑い沖縄の夏でも関係ないと思われる。
 では沖縄で出来ることは何かを私なりに考えてみる。

 先ずは病床の確保である。軽症であっても苦しい状態になりかねないのであるから、小中学校の体育館にベッドを並べるのはかなり厳しいと思う。それは最終手段だとして、やはり清潔な状態を維持出来る場所が良い。
 幸か不幸か、観光客の激減により沖縄の宿泊施設には空室が目立つ。そこで、宿泊施設に自治体から(例えば浦添市から)緊急時に利用することの承諾を得ておく。また、緊急時に備え、一般の宿泊客とは異なる出入口や通路の確保などを事前に検討しておく。そうすれば、宿泊客は下層階から予約を埋め、病床は上層階から順になど、予め区分けが出来るのではないかと考える。
 次に感染拡大への対策である。これはすぐにでも出来ることがいくつかあると思う。最も簡単なのは市町村単位でマスクの使用を繰り返し呼びかけることではないだろうか。『公共交通機関を使う場合、屋内施設に入る際にはマスク、或いはそれに代わるもので鼻と口を覆うこと』という条例を期限付き(延長可)で制定してもいい。拘束力がなくてもいい。少しでも周知されることが重要だろうし、条例まで制定されればメディアにも取り上げられる。
 よく言われているソーシャル・ディスタンスも法に関係なくすぐにできることである。これも条例を作ってしまっても良いと思う。例えば浦添市が『市内の公共施設、公共交通機関、店舗等では可能な限り人との間隔を1.5m以上保つこと』としたらどうだろう。理髪店などでは難しいだろうが、やらないよりはずっとマシだと思う。

 今回の疫病対策としてだけではなく、未来の災害に備えることも含めて、各自治体で出来ることは最大限実施するべきだと思う。沖縄の病床も限られているし、県内で可能な検査数にも限りがある。全国的な危機に陥れば、遠隔地であるがゆえに、十分な物資が沖縄に届かないこともあるだろう。時間はそう残されていない。今すぐ、何が出来るか考察し実施するべきではないだろうか。

  最後に、当然のことではあるけれども、沖縄県だけでなくどの地域も最悪の事態にならないことを祈っています(東京などは既に最悪の事態なのかもしれませんが…)。国籍、民族、人種を問わず、個人でも自治体レベルでも互いに助け合い、一人でも多くの方が無事にこの困難を乗り越えられますように。

宮古島狩俣の神謡から想うところ

 宮古島狩俣の神歌について、2000年、24歳の頃に執筆した記事である。特に書き直すことなく、以下そのまま掲載する。

 宮古島の北端に近いところ、そこに狩俣という小さな集落がある。そこは、神と人とが共存している数少ない集落である。

 狩俣の神謡(ニーリ)を知ったのは、以前勤めていた出版社から出されていた谷川健一の「南島文学発生論」であった。それ以前から幾度も読んでいた黒田喜夫の評論にも登場するが、ニーリについて「知った」と思えたのは、谷川健一氏の著書と出会った時だったのである。
 それからというもの、何故か私はこのニーリの虜になってしまっている。どこかアイヌの神謡(カムイ・ユーカラ)に似ているからだろうか。私の現在の琉球への関心と想いは、まさしく、このニーリと出合ったときから始まる。ここでは出来うる限り簡潔にニーリについて述べてみたい。そして読者が、ただのリゾートとしてではなく、沖縄戦の歴史は勿論、それ以前より伝わる琉球の調べに触れる旅をしていただけたなら、それ以上に嬉しいことはない。そこには忘れられた大和と、ひっそり呼吸を続ける琉球とがあるはずである。

 狩俣のニーリは、「祓い声」(ハライグイ)と呼ばれる村建の謡から始まり、七つのニーリが次々と謡われていく。ニーリが謡われる状況はというと、狩俣の中心であるムト(元=神社の原始的な場所の小屋)である、ウプグフムト(大城元)に村の男達が入り、酒を飲み、寝て待つ。すると突然怪しげな声とともに、ウヤガン(祖神)と呼ばれる老女たちが現れ、小屋の戸や壁をたたき出す。男達が目覚め、戸を開け、外を見る。するとそこには、神々が月明かりのなかで謡い、踊っている。ウヤガンは十四の神謡を明け方まで謡い続ける。男達はその途中で当然眠ってしまい、目覚め帰路につく。ざっとこのような感じである。

 神事を司るのが女性であることは、琉球の他の地方と同様である。だが、ここには明らかに二重の神話が存在する。一つはまさにウヤガンたちの謡うニーリである。このニーリは、狩俣の祖神である神々一柱一柱の事蹟を謡った叙事詩である。事蹟というのは実は正確ではない。というのも、今まさに神が活動しているさま、つまり現在形で謡われているのである。そして、あるニーリでは、始めは三人称で謡われているのが、いつのまにか一人称になる。恐らくその瞬間に、神は歌い手に依り憑くのだ。またニーリは説明的でもあるので、現在形のほうがより効果的である。そして、神話が現在形で謡われる限り、それらはまさに今この時を謡うものとなる。今こそが始まりの時なのである。神話が現在形で謡われる社会では、変化することを嫌う社会であることと通じている。社会のあり方がニーリによって定められており、その通りにしてゆけば、安定した生活をしてゆけるというわけである。二重の内の一つ目の神話は、進歩を否定することから始まったのである。

 二つ目こそが非常に興味深い。ニーリを聞き、目覚めた男達のその後である。何しろ始めは戸を明けると神が依り憑いた老女達が歌い踊っているのである。それが明け方まで続くものだからとうとう眠ってしまうわけだが、眠っている最中は神々の歌声をBGMにしてしまっているのである。目覚めてからが大変である。彼等は家に帰るなり、昨夜神を見た、その声を聞いたと言い出す。これは当然集落中に噂として広まる。これが二つ目の神話である。

 と、ここまで紹介したのが、狩俣の冬祭の模様である。これとは別に、男達がニーリを謡う夏の豊年祭がある。といっても矢張り神事は女性が司るので主役は男ではないのだが、こちらの豊年祭のニーリでは狩俣の農耕の歴史を総て聞くことが出来る。

 琉球を素晴らしいと思う何よりの理由は、こうした神話や風習がしっかり生活に根付いていることである。こうしたものが残っている理由は、琉球が地理的にしか支配されてこなかったことにあるように思う。明や島津藩、明治政府、そして米国。これらは、貿易の中継点であったり、軍事的支配であったり、場所の確保が目的のものであったので、人びとの習慣すべてを変えるに到らなかったのではなかろうか。
 しかし、本土復帰後の沖縄に対し、日本は経済的支配を行っている。本土企業は次々に沖縄へ進出し、島全体をリゾート化していった。依然として巨大な米軍基地は存在しているわけだから、軍事支配と経済支配との両方をうけていることになる。日本本土を見ればよくわかると思うが、方向性を見失った経済社会の発展はそれまでの民衆の文化を根底から覆す。各地で行われている祭りは、最早ただのイベントとしかいえないものが多い。

 かつて、アイヌのあらゆる文化が同化政策によってすべて滅ぼされた。復帰後、沖縄も同じ様な運命をたどっているように思えるのは間違いであろうか?何度も述べたが狩俣のニーリは現在形である。新しい神話が誕生してもいい。日本津々浦々、現在形で歌っていただきたいものである。このような理由から、忘れられた大和が、確かに狩俣には存在している、そう感じるのである。

安売りされる沖縄の労働力②

 前回の記事の続きである。今回はもう少し詳しく沖縄の貧困の現状を考察してみることとする。

 国税庁の調査によると、日本人の平均年収は432万円だそうである。では沖縄はいくらなのだろうかと、総務省の統計資料を元に算出された各市町村の数値をざっと見てみる。すると那覇市で317万円、浦添市と宜野湾市で284万円、沖縄市は280万円、うるま市247万円、南城市240万円となっている。最も高いのは北中城村で363万円である(北中城村の年収が高いことの理由は後述する)。ところが、厚労省の調査だと2018年の沖縄県の平均年収は369万円だそうである。県全体の平均年収が、最も高い自治体の平均年収よりも上回っている…何とも奇妙ではあるが、実際に生活している者としては総務省の数値が妥当であると感じる。
 そしてこの数値は平均値であるから、中央値はさらに低くなることは容易に想像がつく。日本人の年収の平均値が432万円に対し、中央値はおよそ360万円と言われてもいる。単純にこの割合を沖縄に当てはめれば、市町村によっては中央値が200万円を下回る自治体も存在すると考えられる。
 一般的に年収とは税金が引かれる前の総支給額のことである。ここまで記載してきた数値はすべて総支給額だ。年収200万円前後から年金や所得税が引かれた手取りである。生活するにはかなり厳しいはずだ。

 本当にそんなに低いのか?そういう疑問が出てきても不思議ではない。
 Bloombergに掲載されたノア・スミス氏の記事によると、日本では年収が国民所得の中央値の半分以下の人の割合、つまり相対貧困率は15.7%だという。仮に中央値が360万円だとすれば、6人に1人が180万円以下の所得となる。中央値の値が不正確かも知れないが、平均年収の半分が216万円であるから大きく間違っているとも思えない。
 また、内閣府沖縄振興局の平成29年9月の報告「沖縄の子供の貧困に関する現状と取組」によれば、「沖縄における子供の相対的貧困率は 29.9%となっており、全国では七人に一人が貧困状況にあるのに対し、沖縄では三人に一人が貧困状況にある」とある。沖縄の現状が深刻であることは明白である。
 では実際に沖縄の求人を見てみると、日本を代表する大手広告代理店の沖縄支社のサイトに中途採用の募集要項が掲載されており、そこにはこうあった。

年収242万円以上
(月給内訳)
基本給16万円+固定残業代4万2000円(超過勤務30時間分)

上記とは別に賞与があるというが、基本給16万円の3か月分の賞与があったとしても年収は290万円である。これが給与形態の下限値であるとしているが、募集要項より大きく上回って採用することは想像しにくい。下限16万円の基本給をいきなり20万円で雇用となれば破格の扱いなのではないだろうか。この企業の株主には大手広告代理店の本社の他、沖縄の主要メディアが名を連ねている。要するに有名企業であり、この条件は沖縄では悪くない方であると私は思う。これ以下の条件で雇用する企業が多いと実感しているので、先ほど挙げた沖縄の平均年収の低さにも頷けてしまうのだ。ただし、この企業の本社社員の年収は日本国内でもトップレベルであることから、前回の記事で述べたようにこれも地域格差の一つであると言える。その社名を聞けば「あの会社の系列なのにこんなに安いの?」と多くの人が驚くことだろう。
 さてもう1点、募集要項に「固定残業代」とある。いわゆる「みなし残業代」である。沖縄の求人欄でも急激に増えてきた。数年前どこかのセミナーで、「残業代のトラブルを解消する方法」としてこの「固定残業代」が紹介されていた記憶がある。一人雇うのに月に20万円の支払いが可能だと考えた場合、その20万円の中に残業代も組み込んでしまえばトラブルは起きないというのである。そのためには総額が20万円になるように基本給が下げられる。この場合、雇用する側は残業をさせても支給額が増えないようにしているだけにすぎず、いわば残業代不払いの隠れ蓑でしかない。「残業をしなくても支給される」という労働者側のメリットは実質ないのである。また賞与があったとしても、その査定基準は下げられている基本給とされるケースが多い。
 こうした背景には、残業代を支払っていない企業が多いことがあると私は考えている。2年前、那覇市に本店を構える老舗文具店の経営者が、残業代不払いで逮捕されたとの報道があった。沖縄では有名な企業であり、経営状態も悪くはないと思われるが残業代は不払いであった。私が知っている限りでもこうした企業は多く存在する。他にもたくさんあるだろうと思わずにはおれないのである。

 結局のところ、「低賃金こそが問題」「沖縄ほど経営者が強い県はない」という結論に達してしまうのであるが、労働力を安売りしているのは他でもない沖縄県民であるとも言える。残業代不払いにしてもそうだが、労働者側が声を上げていく必要がある。今、沖縄の労働者の多くは「沖縄は所得が低いから」と諦めているようにも思える。また、多少羽振りの良い業界で働いている者や高所得者は、低所得者の生活を見て満足しているかのようでもある。諦めと慢心が蔓延っていては何も進展しないだろう。特に諦めからの脱却が必要であり、そのきっかけとなる政策を、各自治体の議員は模索するべきである。

 さて北中城村の平均年収が高い理由についてだが、正直よく分からない。2017年の平均年収が287万円でその翌年は363万円である。この急激な上昇の原因が分からない。ただ、北中城村は県内の他の市町村と比べても平均年収は高い方である。その理由の一つとして、高級住宅街のあることが挙げられると思う。北中城には海を見渡せる高台があり高級住宅街となっている。村外から移住した高所得者もいることだろう。
 少し前のデータではあるが、総務省発表の「2013年 住宅・土地統計調査」から北中城村の世帯年収割合を見ると、300万円未満の世帯が51%を占めている。これは同じ年の浦添市の割合と同じである。全体的に裕福なのではなく、所得格差が大きいことは間違いないようである。

安売りされる沖縄の労働力①

 改めて沖縄の貧困について考えてみると、どうしても「賃金の安さ」が真っ先に浮かぶ。今から9年前に書いた記事「沖縄生活事情」でも所得が低いことを取り上げた。その中で私は、『「幻想の島 沖縄」の著者大久保氏は「低賃金こそが問題」「沖縄ほど経営者が強い県はない」としているがそのとおりである』と書いた。この実感は今も変わらない。むしろ状況は悪くなっているのではないだろうか。

 沖縄県は県外から企業の誘致を積極的に行っているから、WEB関連の業務やコールセンター等を沖縄に開設する大手企業も増えている。数年前、そうした企業の説明会に参加したことがあるのだが、そこで聞かされた言葉に、私は驚愕した。
 説明をしていた役員の男性は「何で沖縄に事務所を開くかというと、ぶっちゃけて言えば人件費が安いからです。東京で人を雇うとバカにならない…」と語っていた。包み隠さず本音を語ることで信頼を得たかったのであろうが、私には逆効果であった。
 この発言は「安く働かせたい」と宣言しているようなものであるから、恐らくまともな昇給は望めない。入社前から「安い給料で働け」という企業に就職することほど愚かなことはない。入社以前に泣き寝入りの状態なのであるから、長く続けられるはずもないだろう。
 しかし、このような企業が多く沖縄に進出してきているのが現状である。大手企業のコールセンターで働いている知人からは、「同じ仕事をしているはずなのに県外の事務所と自分たちとで給料が違う」といった不満が社内にあると聞かされたことがある。
 説明会に話を戻す。役員の話の続きに私はさらに驚かされた。どこまでが本当かは分からないのだが、「人件費が安い地方を探していた時、沖縄県の企業誘致の担当者と話をした。そこで人件費が安いことを耳にした。本社と沖縄営業所との移動代が出るなど、県からの補助もある。『沖縄ってすげぇ!』と思った」というのである。これが本当であれば、沖縄の労働力を安売りしているのは他でもない沖縄である。これが本当ではないにしても、県民の税金から補助金を出している先は「沖縄の労働力を安く買う」企業であることに変わりはない。
 「沖縄ほど経営者が強い県はない」が、それは沖縄の経営者だけではなくなった。確かに、企業誘致をすることで求人倍率は1倍を下回り完全失業率も改善されてはいるが、それは同時に沖縄県民を安く働かせる企業が増えたのだとも言えるだろう。大多数の沖縄県民の生活は決して楽になってはいない…それが私の実感である。

 こうした状況は沖縄だけではないのだろう。7月30日の沖縄タイムスには最低賃金が全国平均901円になるとあるが、東北地方、四国や九州南部の最低賃金を見ると沖縄とほとんど変わらないようである。翌日の琉球新報の記事には、『県内コンビニのオーナーは、最低賃金が26円上がった場合、1カ月当たり4万円以上の人件費が増加すると試算する。「深夜手当はさらに1・25倍の賃金が上乗せされる。経営がギリギリの店舗は大変だろう」と話す』とある。この話からは沖縄県内のコンビニでは「最低賃金、もしくはそれに近い時給で雇っている」ということが見えてくる。そして求人誌を見ると、それはコンビニのような販売スタッフだけではなく、他の職種にも散見される。最低賃金で雇い続けてきた企業や店舗と言うのは、やはり「経営者が強い」のだろう。そして最低賃金が沖縄と同程度の県でも同様なのだろうと想像してしまうのである。

 首都圏に暮らしていた頃の私の感覚は、「最低賃金で雇うなんてありえない」「最低賃金で求人広告を出すなんて恥ずかしい行為だ」というものだった。法が定める最低の基準である。これに近い金額で求人広告を出している企業があれば「この会社は大丈夫なのだろうか?」と思うことだろう。「だろう」としているのは一般的な求人では見たことがなかったからだ。
 一方、人件費削減を念頭に置いている企業側からすれば、ただでさえ最低賃金が高いというのにその金額で雇いにくいとなれば、最低賃金が低く、しかもそれに近い金額で雇える地域に目をつけるのもある意味当然だと言える。
 政府は「働き方改革」の一環として同一労働同一賃金を掲げ、同一企業内において、正規雇用労働者と非正規雇用労働者との間で、不合理な待遇差を設けることを禁止する法律「短時間労働者及び有期雇用労働者の雇用管理の改善等に関する法律」(いわゆる「パートタイム・有期雇用労働法」)を施行した。これは評価出来ることではあるが、地域格差は未だ解消されてはいない。
 安い人件費を求め、沖縄など最低賃金の安い地域に子会社を開く。例えばそれが保険の相談窓口で、他の県でも同じ業務をしている関連会社があれば、同じ系列企業で同じような仕事をしているはずなのに給与が違うということになる。関連企業とはいえ別会社であるから雇用条件が違っていても何も問題はない。そして子会社の上役には本社から出向で来るパターンで、彼らの給与は沖縄の社員には夢のような額なのである。
 対策として「最低賃金の全国一律化」を唱える人もいるけれど、経済界からは強い反発があるだろうし、地方から撤退する企業が相次げば失業率が高くなることも予想される。しかし、真に同一労働同一賃金を目指すのであれば、そうした課題があることも踏まえて、地域格差の解消に取り組むべきではないだろうか。

※このテーマについては近いうちにPart2を執筆します。

宝井其角と今泉準一|対象を有情とすること

 宝井其角。江戸前期の俳諧師である。松尾芭蕉の門に入り、蕉門十哲の第一の門弟とされている。今泉準一は、この宝井其角の研究を続けた学者である。
 其角については「よく分からない」という評が昔から多い。私自身、其角の作品と対峙してみても、どうにもその良さがよく分からないでいたのだが、今泉準一の著書「元禄俳人宝井其角」と出会い、それが一変した。

 其角の自選句集「五元集」に収録されている句に
    浅草川逍遥
   鯉の義は山吹の瀬やしらぬ分
というものがある。これだけ見ても私にはさっぱり分からない。今泉準一によると、高浜虚子、内藤鳴雪ら相当たる顔ぶれによる座談形式の五元集研究において、この句について色々意見は出たものの「よくわかりません」という結論に至ったそうである。
 この句の一般的な解釈を見てみると、先ず浅草川とは隅田川のことである。隅田川の鯉は美味で知られていたが、其角が詠んだ時代ではそれも昔のことになっている。山吹の瀬というのは謡曲でよく知られた当時は有名無実となっていた宇治川の名所だそうである。つまり、隅田川の鯉の美味さは、山吹の瀬と同じように知られなくなってしまった、という句になる。
 このように説明されても、この句のどこが優れておるのか分からない。まして私には謡曲の知識が欠片もないから「よく分からない」以前に「さっぱり分からない」という壁にぶち当たり、一般的な解釈にすら辿り着くことがない。
 ところが、今泉準一の解説によると、この句には全く異なる意味があるというのである。参照元は省略するが、其角没後18年後に生まれている旨原という俳人が弟子に口述した解釈から今泉はこう記述している。

綾瀬のあたりが御留川(おとめがわ、漁業禁止の川)で、ここでの鯉が山吹鯉と言って名物である。川守り(かわもり、漁業禁止を見張る人の意でろう、もちろん渡守の意にとっても通じる)にすこし金子を与えこっそり魚を買う、役人の方は「なにしらぬぶん」というわけで、朝政(ここでは幕政)を諷した句だ、という解釈である。つまり「鯉ノ儀ハ山吹ノ瀬ヤ知ラヌ分ニ致シテオク」という武士口調のもじりの諷刺句だというのである。したがってここでの山吹は金子あるいは小判の隠語である山吹の意にとっているのであることがわかろう。

 高浜虚子らが「よくわかりません」と結論付けたこの句も、当時そこに暮らした人々の様子を知れば、まるで意味が変わってくる。しかも表向きの意味は、「隅田川の鯉の美味さは、山吹の瀬と同じように知られなくなってしまった」という何の変哲もない句なのである。恐らくこの句を耳にした当時の人の中には「其角ってのはなかなか上手い事言うもんだねえ、洒落が効いてるじゃないか」と言った者がいたに違いないのである。
 長く時が流れたならば、流行り廃りは繰り返されるのであろうし、人の感性も変わってしまう。1874年生まれの高浜虚子に分からぬものを、其角の時代よりさらに100年遠く、1974年に生まれた私に分かるわけがないのは、ある意味当然である。古典と対峙する際に必要なものとは、当時の人の感性を想像する準備をしておくことであると言えよう。対峙した時には全く分からないものであっても、その背景に何か当時の様相があるに違いない、ということだけでも想像できれば、後に調べることも出来る。その準備すらせぬまま「よくわかりません」と結論付けてしまっては、最早研究とは言えまい。
 その時代の感覚を理解し、想像し、その上で鑑賞しなければ、芭蕉も其角もよく分からないものでしかないのである。そんなことは百も承知だと思っていたが、このあまりにも常識的なことを身をもって知るまでに、私は実に20年以上の歳月を費やしてしまった。

 ところで、この感性を想像することは現代にも通じるものがある。例えば今泉準一は「元禄俳人宝井其角」の中でこう書いている。「対象を有情(心のあるもの)として把握する思考様式は、詩という狭い領域に押しやられてしまっているとはいえ、なお現代でも生きている」と。
 「対象を有情」とは、近代以前で言えば、自然を神とする神事などが挙げられるのではないだろうか。現代社会では、例えば幻想的な色彩を放つ泉が見つかれば、観光スポットにはなるだろうが、神が宿る場とはならないであろう。だがそうした光景に神が宿るとして祀る人々がいたのである。
 「なお現代でも生きている」のは何も詩だけではない。例えばガルシア・マルケスの「百年の孤独」に出てくるあまりにも有名な「ものにも命がある。問題はその魂をどうやって揺さぶり起こすかだ」という一節。これなぞまさしく「対象を有情」とすることに他ならない。
 今を生きる我々は、現在に呼吸する詩人は、「対象を有情」とすることに自由でなければならない。「元禄俳人宝井其角」から、そして今泉準一から、学んだことである。

(追記)
 詩人の飯島耕一さんは、其角研究の第一人者である今泉準一を御茶ノ水の寿司屋に誘い、熱心に話を訊いたこともあるほど其角に傾倒した人である。1998年の著書には、「『虚栗』の時代―芭蕉と其角と西鶴」(みすず書房)があり、その参考文献欄には今泉準一の著書も並ぶ。
 実は今泉準一は、私の大叔父にあたる人である。詩の出版社である思潮社に勤務していたことがある私は、大叔父である今泉準一の訃報を飯島さんに送ったことがある。幸運にも私は、その後何度か飯島さんと言葉を交わす機会に恵まれた。飯島さんが私との会話に求めたものは今泉準一と其角についてであった。思潮社にいた経験があり今泉準一の身内であるのだから、其角のことを知っていると思われたのであろう。しかし、当時の私は「其角と芭蕉と」など、最近の大叔父の著書は読了していたが、其角の作品の良さを理解できずにいたので、飯島さんの期待に応えるには不十分であった。昭和44年に出版された「元禄俳人宝井其角」をもっと早く読んでおれば、また違ったのかもしれないなと、ふと思ったのである。

県民投票について

 「辺野古米軍基地建設のための埋立ての賛否を問う県民投票」について、姉妹ブログ「路地裏のランナー」に記載したのでそのまま引用する。

2月24日の県民投票まであと1週間ほどとなりました。
沖縄で走る私にとっても大事なことですので、私自身の考えを記録しておきたいと思います。

先ず県民投票の実施そのもについてですが、私は大きな意義があると考えています。
「先の知事選で民意は示された」、「税金の無駄遣い」といった意見も多数あります。
しかし、この投票は県全体だけではなく、自治体ごとにも集計できます。
投票所ごとに集計されるなら、地域や集落ごとにもです。
普天間基地の移設という大きな出来事について、各市町村や地域で、どれだけの人が賛成だったのか、そして反対だったのか、後世にしっかり残すべきだと考えます。

そして私は「反対」に投じます。
その理由と、疑問に感じていることを以下記述します。

・軍用飛行場は、住宅の近くにあってはならない

沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落した事故を、私はすぐ近くで目撃しました。
機体が爆発炎上した光景を見て、私は「誰かが死んだ」と思い恐怖しました。
あの事故で、軍用飛行場は県内外に関わらず人の住む場所にあってはならないと、強く思うようになったのです。
辺野古にも人は住んでいます。
学校もあれば保育園もあります。
辺野古への移設は、普天間の危険性の除去ではなく危険性の移設でしかないと考えます。

政府は「陸地上空を飛ばない」としていますが、米軍の視点で考えてみると、陸地を飛行しない訓練に訓練としての意味があるのでしょうか?
名護市内の他の地域、東村や宜野座村など周辺自治体の上空も飛行すると思うのです。

「では普天間はどうするんだ?固定化していいのか?」という意見もあるようですが、普天間基地を本当に「世界一危険な飛行場」であると思うならば、辺野古移設以前に、即座に閉鎖すべきです。

私は以上の理由から、普天間だけでなく、嘉手納、岩国、横田、厚木、三沢などの基地のあり方も変えるべきだと考えます。
言うは易しであることは重々承知しています。

・辺野古に基地を建設したら普天間は返還されるのか?

最も疑問に感じていることです。
稲田朋美氏が防衛大臣だったころ、国会で「米側と協議、調整が整わないようなことがあれば、返還がなされないことになる」と答弁しました。
後に否定したものの、普天間基地の返還条件の一つに
「普天間飛行場代替施設では確保されない長い滑走路を用いた活動のための緊急時における民間施設の使用の改善」
とあるのは紛れもない事実です。

どの空港が使われることになるのか、全く不明です。
そして「緊急時」の定義がよくわからないこと、もしかしたら現在建設中の那覇空港の新滑走路がそれなのではないか?という疑問が生じることから、政府が度々口にする「地元の理解」と「丁寧な説明」は不十分であると判断します。

また、辺野古が建設されても普天間が返還されない可能性があるのであれば、辺野古に基地を造る意味はありません。

・海兵隊は沖縄に必要なのか?

私は平和主義者ではないかもしれない。
しかし私は反戦の意志を貫きたいと考えている者です。
その私が、百歩譲って軍隊の存在に口をつぐんだとしても、海兵隊だけは沖縄にいてほしくないと考えています。
海兵隊が起こす事件が圧倒的に多いからです。

沖縄で仕事をしていると、米軍との関りを持つことがあります。
また米軍の本当の姿を知りたくて、彼らが通う店に足を運び、幾度となく言葉を交わしたこともあります。
そして私は「海兵隊は違う」と結論付けました。

辺野古に移設したところで、海兵隊が沖縄本島にいる限り、いずれまた凶悪な事件が起きるのではないかという不安があります。
国防のためには米軍が必要だとするならば、せめて海兵隊だけは県外に持っていってくれと切望します。

切望しますが、それでも「沖縄に必要だ」とする声があります。
昨年、沖縄県振興拡大会議において、県内の全市町村が国に要望する共通事項の第一項は、「日米地位協定の見直し」でした。
全市町村です。
それこそオール沖縄の声です。
仮に「必要だ」とする声が国内の大多数を占めたとしても、日米地位協定の見直しすらないまま海兵隊を沖縄に駐留させること、また駐留させようとするその姿勢を、私は容認することが出来ません。

「普天間基地(海兵隊)がなくなれば中国に侵略される」というような中国脅威論を目にすることがありますが、これは論外だと思います。
普天間基地がなくなれば中国になってしまうという主張は、沖縄に駐留する米空軍、海軍、自衛隊が全くの無力であると言っているに等しい。
それはなかなか考えにくいことです。

・最後に

他にもたくさんありますし、上記3項目の内容も書き足りないのですが、あまりに長くなるので(もう充分長いので)ここまでとします。
冒頭にも述べましたが、今を生きる私たちの判断を後世に残すことには大きな意義があると思います。
一人でも多くの方が投票することを願うばかりです。

https://run-0318.blogspot.com/2019/02/blog-post.html

安谷屋正義『滑走路』

 初めて安谷屋正義の絵画作品を見たのは、佐喜眞美術館に展示されていた「白い基地」だった。安谷屋正義という画家について、全く予備知識がないまま絵と対峙し、私は「白い基地」に吸い込まれた。館長の佐喜眞さんに絵について伺おうとしたのだが、忙しそうで何も聞けなかったことを覚えている。
 そして安谷屋正義という画家の名と「白い基地」だけが、私の脳裏に深く刻み込まれた。

安谷屋正義「滑走路」(「安谷屋正義展」より)
「滑走路」

 次に安谷屋正義と出会ったのは沖縄県立美術館で開催されていた「ニシムイ展」であった。ニシムイとはニシムイ美術村のことで、那覇市首里に西森(ニシムイ)と呼ばれた地域があって、そこに東京美術学校(現東京芸術大学)出身等の画家たちが集った生活協同地域である。
 ニシムイ展で、安谷屋正義の展示場に入ると、真っ先に「滑走路」が視覚に飛び込んできた。
 正確には、飛び込んで来たのは「線」である。1963年に描かれた「滑走路」は、そのサイズが909×2180と安谷屋の作品の中でも大作であり、米軍基地の滑走路と米軍機とが、鋭い線を主体に描かれている。画と対峙した瞬間に私は、キャンパスから線が飛び出し、私の網膜に刺さり後頭部へ突き抜けたような感覚に陥った。そして視線を上げ再び絵を直視すると、線が眼に痛いのである。
 この線は、鼓膜に突き刺さるような米軍機の甲高いジェットエンジン音、そして脳天から叩き潰されるような爆音であるように思えた。恐らく安谷屋は、滑走路を描き上げるまでに、幾度となく軍用機のエンジン音を耳にしたはずで、彼はキャンバスに風景だけでなく音も描いたに違いない。そう思えてならなかった。

 そしてもう一つ、「白い基地」にしろ「滑走路」にしろ、安谷屋の作品からは沖縄らしさが感じられないことに気付いた。後に画集で確認してみると、おそらく1955年ごろを境に、安谷屋の作品から「沖縄らしさ」が消えてゆくのが分かる。
 これはとてつもないことであると思えた。沖縄で表現された多くの芸術作品には、沖縄を想起させるものが含まれているものが圧倒的に多い。多くの芸術家が、沖縄という島に根ざし、共同体の中から自らを中心に物事を捉え表現を発していたのに対し、安谷屋はそことは距離を置き、全く別の場所で思考していたのである。
 現代の沖縄でもこれは困難なことである。しかし、島の原風景を否定することなく乗り越えることが出来なければ、いつまでたっても「沖縄の」芸術と言われ続けることになるだろう。「沖縄の」と頭に付く限り、芸術も思想も、はては主義主張でさえ、他の地域からは一線を画したものとして見られてしまう。そしておそらく、乗り越えた思考だけが、島の外に伝わるのではないだろうか。

 詩人、清田政信は安谷屋についてこう書いている。

南島を歌い上げる者たちの中で、彼等ほど無邪気になれず、むしろ「歌わない」ことを自らに課することによって「思考」の肉体を色と線はどれだけになり得るかという徹底した作風を生涯持続し得た稀有の例だと言えよう。それは「近代」を回避しないことだし、また近代にきたえられた眼によって、よく沖縄の風土に切りこんだ作品といえる。

 また清田は、初めて安谷屋の作品をみたときのことをこう述懐している。

絵の前で言葉を失い、線というものがこれほど人の内部に衝撃するものかという思いに立ちすくんだ

 恥ずかしい話であるが、詩を書く者でありながら私が清田の著書を読み始めたのはここ2,3年のことである。引用文はすべて、「情念の力学」に収められている「安谷屋正義論」(1979年)からである。
 私と似た線の衝撃を清田も体験しているとなると、安谷屋の線の鋭さは相当なものなのだろう。清田は「沖縄の風土に切りこむ」「衝撃」という表現を用いたが、これは私の「乗り越える」という感覚と大差ないように思える。いずれにせよ、芸術表現にしろ政治的主張にしろ、今、私たちが必要とするものは、同時に失っているものは、安谷屋の線が持つ鋭さであり、線がもたらす衝撃であるように思えてならない。

高良勉さんによる書評

 第一詩集「挑発と真理」の刊行にあたって、書評を書いてくださったのは詩人、高良勉さんだった。先ずはその全文を紹介したい。

 生真面目な詩集を、きまじめに読んでいる。秋田高志の詩集『挑発と真理』を読み進むと、さまざまなことを考えさせられる。

 永遠に混じり続ける物質を
 分析することなく認知せよ
 (中略)
 否定の苦痛に耐えつつ
 島に居座る絶望を疑え (「挑発」)

 おそらく秋田にとって第一詩集である本書を読むと、詩表現の原点である「ざまざまな道で苦悩し」(あとがき)続ける魂がよく伝わってくる。そして、言葉と思想が一つ一つ大切に表現されている緊張感が心地よい。通読すると「存在の誇り」、「真南風」、「走者」などの作品が強く印象に残る。本書は「言魂の詩集」と呼んでいいだろう。

 しかし、問題はここからだ。言葉と思想にこだわる詩人にとって、その表現の方法が問題となる。秋田の詩も、その段階を迎えていると思う。詩と思想と真理。

 詩を書く慾望の一つに、秋田の言う「自分自身の本質」や「真理」を捉えたいということがある。しかし、その思想的、哲学的な苦悩を詩に表現するときは、その方法について自覚的に格闘しなければならない。 その点、秋田の作品は「論理的な表現」にかたより束縛されていると思う。しかも、その論理的な結論が既成の世俗的な結論に帰着すると、詩は単なる説教かアジテーションになり、やせ細ってしまう。「世界とは/すでに成立している事柄の/総称である」(「破壊」)などという表現がその例である。

 これらのことは、私自身の弱点でもあり課題でもある。詩は、まずなによりも言葉の芸術である。したがって、むしろ論理的な表現からは飛翔していかなければならない。詩の表現方法で大切なのは、言葉の革命、感性の革命、イメージの革命だと、私は思い続けている。その結果、豊かなイメージやリズムが生まれるように努力するのだ。幸い、著者には「俺は今/いつかあいつになってやろうと/琉球の風に舞う燕を/いつも見上げている」(「走者」)という感受性がある。

 なお、最後に書かれている「アイヌ語」には日本語訳が欲しかった。アイヌ語辞典を引いて「シコメウェ ソノアンペ イタクラマツ」が「挑発と真理の言魂」と読めたのだが。

琉球新報 2005年9月18日 より

 元々私は、40歳を過ぎるまで詩集を出すつもりはなかった。水上勉さんにも「沖縄を肌で10年経験したら、きっと良い詩が書けるかもしれませんね」と言われていた。それが31歳で出すこととなった。
 きっかけは前年に起きた米軍機墜落事故である。あれほどの事故を目の当たりにして何かをせずにはおれなかった。しかし、焦りは思考を狂わす。結果として「挑発と真理」に収めた作品は、詩としては何ひとつ成立していないのかも知れない。米軍基地という大きな存在に、私自身の存在の誇りをぶつけてはみたものの、無意味に終わってしまったのかも知れない。
 この無意味な敗北を、どうにか繋ぎとめてくれたのが高良さんの書評であった。そのおかげで、私はまだ、走り続けることが出来ている。