宝井其角と今泉準一|対象を有情とすること

 宝井其角。江戸前期の俳諧師である。松尾芭蕉の門に入り、蕉門十哲の第一の門弟とされている。今泉準一は、この宝井其角の研究を続けた学者である。
 其角については「よく分からない」という評が昔から多い。私自身、其角の作品と対峙してみても、どうにもその良さがよく分からないでいたのだが、今泉準一の著書「元禄俳人宝井其角」と出会い、それが一変した。

 其角の自選句集「五元集」に収録されている句に
    浅草川逍遥
   鯉の義は山吹の瀬やしらぬ分
というものがある。これだけ見ても私にはさっぱり分からない。今泉準一によると、高浜虚子、内藤鳴雪ら相当たる顔ぶれによる座談形式の五元集研究において、この句について色々意見は出たものの「よくわかりません」という結論に至ったそうである。
 この句の一般的な解釈を見てみると、先ず浅草川とは隅田川のことである。隅田川の鯉は美味で知られていたが、其角が詠んだ時代ではそれも昔のことになっている。山吹の瀬というのは謡曲でよく知られた当時は有名無実となっていた宇治川の名所だそうである。つまり、隅田川の鯉の美味さは、山吹の瀬と同じように知られなくなってしまった、という句になる。
 このように説明されても、この句のどこが優れておるのか分からない。まして私には謡曲の知識が欠片もないから「よく分からない」以前に「さっぱり分からない」という壁にぶち当たり、一般的な解釈にすら辿り着くことがない。
 ところが、今泉準一の解説によると、この句には全く異なる意味があるというのである。参照元は省略するが、其角没後18年後に生まれている旨原という俳人が弟子に口述した解釈から今泉はこう記述している。

綾瀬のあたりが御留川(おとめがわ、漁業禁止の川)で、ここでの鯉が山吹鯉と言って名物である。川守り(かわもり、漁業禁止を見張る人の意でろう、もちろん渡守の意にとっても通じる)にすこし金子を与えこっそり魚を買う、役人の方は「なにしらぬぶん」というわけで、朝政(ここでは幕政)を諷した句だ、という解釈である。つまり「鯉ノ儀ハ山吹ノ瀬ヤ知ラヌ分ニ致シテオク」という武士口調のもじりの諷刺句だというのである。したがってここでの山吹は金子あるいは小判の隠語である山吹の意にとっているのであることがわかろう。

 高浜虚子らが「よくわかりません」と結論付けたこの句も、当時そこに暮らした人々の様子を知れば、まるで意味が変わってくる。しかも表向きの意味は、「隅田川の鯉の美味さは、山吹の瀬と同じように知られなくなってしまった」という何の変哲もない句なのである。恐らくこの句を耳にした当時の人の中には「其角ってのはなかなか上手い事言うもんだねえ、洒落が効いてるじゃないか」と言った者がいたに違いないのである。
 長く時が流れたならば、流行り廃りは繰り返されるのであろうし、人の感性も変わってしまう。1874年生まれの高浜虚子に分からぬものを、其角の時代よりさらに100年遠く、1974年に生まれた私に分かるわけがないのは、ある意味当然である。古典と対峙する際に必要なものとは、当時の人の感性を想像する準備をしておくことであると言えよう。対峙した時には全く分からないものであっても、その背景に何か当時の様相があるに違いない、ということだけでも想像できれば、後に調べることも出来る。その準備すらせぬまま「よくわかりません」と結論付けてしまっては、最早研究とは言えまい。
 その時代の感覚を理解し、想像し、その上で鑑賞しなければ、芭蕉も其角もよく分からないものでしかないのである。そんなことは百も承知だと思っていたが、このあまりにも常識的なことを身をもって知るまでに、私は実に20年以上の歳月を費やしてしまった。

 ところで、この感性を想像することは現代にも通じるものがある。例えば今泉準一は「元禄俳人宝井其角」の中でこう書いている。「対象を有情(心のあるもの)として把握する思考様式は、詩という狭い領域に押しやられてしまっているとはいえ、なお現代でも生きている」と。
 「対象を有情」とは、近代以前で言えば、自然を神とする神事などが挙げられるのではないだろうか。現代社会では、例えば幻想的な色彩を放つ泉が見つかれば、観光スポットにはなるだろうが、神が宿る場とはならないであろう。だがそうした光景に神が宿るとして祀る人々がいたのである。
 「なお現代でも生きている」のは何も詩だけではない。例えばガルシア・マルケスの「百年の孤独」に出てくるあまりにも有名な「ものにも命がある。問題はその魂をどうやって揺さぶり起こすかだ」という一節。これなぞまさしく「対象を有情」とすることに他ならない。
 今を生きる我々は、現在に呼吸する詩人は、「対象を有情」とすることに自由でなければならない。「元禄俳人宝井其角」から、そして今泉準一から、学んだことである。

(追記)
 詩人の飯島耕一さんは、其角研究の第一人者である今泉準一を御茶ノ水の寿司屋に誘い、熱心に話を訊いたこともあるほど其角に傾倒した人である。1998年の著書には、「『虚栗』の時代―芭蕉と其角と西鶴」(みすず書房)があり、その参考文献欄には今泉準一の著書も並ぶ。
 実は今泉準一は、私の大叔父にあたる人である。詩の出版社である思潮社に勤務していたことがある私は、大叔父である今泉準一の訃報を飯島さんに送ったことがある。幸運にも私は、その後何度か飯島さんと言葉を交わす機会に恵まれた。飯島さんが私との会話に求めたものは今泉準一と其角についてであった。思潮社にいた経験があり今泉準一の身内であるのだから、其角のことを知っていると思われたのであろう。しかし、当時の私は「其角と芭蕉と」など、最近の大叔父の著書は読了していたが、其角の作品の良さを理解できずにいたので、飯島さんの期待に応えるには不十分であった。昭和44年に出版された「元禄俳人宝井其角」をもっと早く読んでおれば、また違ったのかもしれないなと、ふと思ったのである。

県民投票について

 「辺野古米軍基地建設のための埋立ての賛否を問う県民投票」について、姉妹ブログ「路地裏のランナー」に記載したのでそのまま引用する。

2月24日の県民投票まであと1週間ほどとなりました。
沖縄で走る私にとっても大事なことですので、私自身の考えを記録しておきたいと思います。

先ず県民投票の実施そのもについてですが、私は大きな意義があると考えています。
「先の知事選で民意は示された」、「税金の無駄遣い」といった意見も多数あります。
しかし、この投票は県全体だけではなく、自治体ごとにも集計できます。
投票所ごとに集計されるなら、地域や集落ごとにもです。
普天間基地の移設という大きな出来事について、各市町村や地域で、どれだけの人が賛成だったのか、そして反対だったのか、後世にしっかり残すべきだと考えます。

そして私は「反対」に投じます。
その理由と、疑問に感じていることを以下記述します。

・軍用飛行場は、住宅の近くにあってはならない

沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落した事故を、私はすぐ近くで目撃しました。
機体が爆発炎上した光景を見て、私は「誰かが死んだ」と思い恐怖しました。
あの事故で、軍用飛行場は県内外に関わらず人の住む場所にあってはならないと、強く思うようになったのです。
辺野古にも人は住んでいます。
学校もあれば保育園もあります。
辺野古への移設は、普天間の危険性の除去ではなく危険性の移設でしかないと考えます。

政府は「陸地上空を飛ばない」としていますが、米軍の視点で考えてみると、陸地を飛行しない訓練に訓練としての意味があるのでしょうか?
名護市内の他の地域、東村や宜野座村など周辺自治体の上空も飛行すると思うのです。

「では普天間はどうするんだ?固定化していいのか?」という意見もあるようですが、普天間基地を本当に「世界一危険な飛行場」であると思うならば、辺野古移設以前に、即座に閉鎖すべきです。

私は以上の理由から、普天間だけでなく、嘉手納、岩国、横田、厚木、三沢などの基地のあり方も変えるべきだと考えます。
言うは易しであることは重々承知しています。

・辺野古に基地を建設したら普天間は返還されるのか?

最も疑問に感じていることです。
稲田朋美氏が防衛大臣だったころ、国会で「米側と協議、調整が整わないようなことがあれば、返還がなされないことになる」と答弁しました。
後に否定したものの、普天間基地の返還条件の一つに
「普天間飛行場代替施設では確保されない長い滑走路を用いた活動のための緊急時における民間施設の使用の改善」
とあるのは紛れもない事実です。

どの空港が使われることになるのか、全く不明です。
そして「緊急時」の定義がよくわからないこと、もしかしたら現在建設中の那覇空港の新滑走路がそれなのではないか?という疑問が生じることから、政府が度々口にする「地元の理解」と「丁寧な説明」は不十分であると判断します。

また、辺野古が建設されても普天間が返還されない可能性があるのであれば、辺野古に基地を造る意味はありません。

・海兵隊は沖縄に必要なのか?

私は平和主義者ではないかもしれない。
しかし私は反戦の意志を貫きたいと考えている者です。
その私が、百歩譲って軍隊の存在に口をつぐんだとしても、海兵隊だけは沖縄にいてほしくないと考えています。
海兵隊が起こす事件が圧倒的に多いからです。

沖縄で仕事をしていると、米軍との関りを持つことがあります。
また米軍の本当の姿を知りたくて、彼らが通う店に足を運び、幾度となく言葉を交わしたこともあります。
そして私は「海兵隊は違う」と結論付けました。

辺野古に移設したところで、海兵隊が沖縄本島にいる限り、いずれまた凶悪な事件が起きるのではないかという不安があります。
国防のためには米軍が必要だとするならば、せめて海兵隊だけは県外に持っていってくれと切望します。

切望しますが、それでも「沖縄に必要だ」とする声があります。
昨年、沖縄県振興拡大会議において、県内の全市町村が国に要望する共通事項の第一項は、「日米地位協定の見直し」でした。
全市町村です。
それこそオール沖縄の声です。
仮に「必要だ」とする声が国内の大多数を占めたとしても、日米地位協定の見直しすらないまま海兵隊を沖縄に駐留させること、また駐留させようとするその姿勢を、私は容認することが出来ません。

「普天間基地(海兵隊)がなくなれば中国に侵略される」というような中国脅威論を目にすることがありますが、これは論外だと思います。
普天間基地がなくなれば中国になってしまうという主張は、沖縄に駐留する米空軍、海軍、自衛隊が全くの無力であると言っているに等しい。
それはなかなか考えにくいことです。

・最後に

他にもたくさんありますし、上記3項目の内容も書き足りないのですが、あまりに長くなるので(もう充分長いので)ここまでとします。
冒頭にも述べましたが、今を生きる私たちの判断を後世に残すことには大きな意義があると思います。
一人でも多くの方が投票することを願うばかりです。

https://run-0318.blogspot.com/2019/02/blog-post.html

安谷屋正義『滑走路』

 初めて安谷屋正義の絵画作品を見たのは、佐喜眞美術館に展示されていた「白い基地」だった。安谷屋正義という画家について、全く予備知識がないまま絵と対峙し、私は「白い基地」に吸い込まれた。館長の佐喜眞さんに絵について伺おうとしたのだが、忙しそうで何も聞けなかったことを覚えている。
 そして安谷屋正義という画家の名と「白い基地」だけが、私の脳裏に深く刻み込まれた。

安谷屋正義「滑走路」(「安谷屋正義展」より)
「滑走路」

 次に安谷屋正義と出会ったのは沖縄県立美術館で開催されていた「ニシムイ展」であった。ニシムイとはニシムイ美術村のことで、那覇市首里に西森(ニシムイ)と呼ばれた地域があって、そこに東京美術学校(現東京芸術大学)出身等の画家たちが集った生活協同地域である。
 ニシムイ展で、安谷屋正義の展示場に入ると、真っ先に「滑走路」が視覚に飛び込んできた。
 正確には、飛び込んで来たのは「線」である。1963年に描かれた「滑走路」は、そのサイズが909×2180と安谷屋の作品の中でも大作であり、米軍基地の滑走路と米軍機とが、鋭い線を主体に描かれている。画と対峙した瞬間に私は、キャンパスから線が飛び出し、私の網膜に刺さり後頭部へ突き抜けたような感覚に陥った。そして視線を上げ再び絵を直視すると、線が眼に痛いのである。
 この線は、鼓膜に突き刺さるような米軍機の甲高いジェットエンジン音、そして脳天から叩き潰されるような爆音であるように思えた。恐らく安谷屋は、滑走路を描き上げるまでに、幾度となく軍用機のエンジン音を耳にしたはずで、彼はキャンバスに風景だけでなく音も描いたに違いない。そう思えてならなかった。

 そしてもう一つ、「白い基地」にしろ「滑走路」にしろ、安谷屋の作品からは沖縄らしさが感じられないことに気付いた。後に画集で確認してみると、おそらく1955年ごろを境に、安谷屋の作品から「沖縄らしさ」が消えてゆくのが分かる。
 これはとてつもないことであると思えた。沖縄で表現された多くの芸術作品には、沖縄を想起させるものが含まれているものが圧倒的に多い。多くの芸術家が、沖縄という島に根ざし、共同体の中から自らを中心に物事を捉え表現を発していたのに対し、安谷屋はそことは距離を置き、全く別の場所で思考していたのである。
 現代の沖縄でもこれは困難なことである。しかし、島の原風景を否定することなく乗り越えることが出来なければ、いつまでたっても「沖縄の」芸術と言われ続けることになるだろう。「沖縄の」と頭に付く限り、芸術も思想も、はては主義主張でさえ、他の地域からは一線を画したものとして見られてしまう。そしておそらく、乗り越えた思考だけが、島の外に伝わるのではないだろうか。

 詩人、清田政信は安谷屋についてこう書いている。

南島を歌い上げる者たちの中で、彼等ほど無邪気になれず、むしろ「歌わない」ことを自らに課することによって「思考」の肉体を色と線はどれだけになり得るかという徹底した作風を生涯持続し得た稀有の例だと言えよう。それは「近代」を回避しないことだし、また近代にきたえられた眼によって、よく沖縄の風土に切りこんだ作品といえる。

 また清田は、初めて安谷屋の作品をみたときのことをこう述懐している。

絵の前で言葉を失い、線というものがこれほど人の内部に衝撃するものかという思いに立ちすくんだ

 恥ずかしい話であるが、詩を書く者でありながら私が清田の著書を読み始めたのはここ2,3年のことである。引用文はすべて、「情念の力学」に収められている「安谷屋正義論」(1979年)からである。
 私と似た線の衝撃を清田も体験しているとなると、安谷屋の線の鋭さは相当なものなのだろう。清田は「沖縄の風土に切りこむ」「衝撃」という表現を用いたが、これは私の「乗り越える」という感覚と大差ないように思える。いずれにせよ、芸術表現にしろ政治的主張にしろ、今、私たちが必要とするものは、同時に失っているものは、安谷屋の線が持つ鋭さであり、線がもたらす衝撃であるように思えてならない。

高良勉さんによる書評

 第一詩集「挑発と真理」の刊行にあたって、書評を書いてくださったのは詩人、高良勉さんだった。先ずはその全文を紹介したい。

 生真面目な詩集を、きまじめに読んでいる。秋田高志の詩集『挑発と真理』を読み進むと、さまざまなことを考えさせられる。

 永遠に混じり続ける物質を
 分析することなく認知せよ
 (中略)
 否定の苦痛に耐えつつ
 島に居座る絶望を疑え (「挑発」)

 おそらく秋田にとって第一詩集である本書を読むと、詩表現の原点である「ざまざまな道で苦悩し」(あとがき)続ける魂がよく伝わってくる。そして、言葉と思想が一つ一つ大切に表現されている緊張感が心地よい。通読すると「存在の誇り」、「真南風」、「走者」などの作品が強く印象に残る。本書は「言魂の詩集」と呼んでいいだろう。

 しかし、問題はここからだ。言葉と思想にこだわる詩人にとって、その表現の方法が問題となる。秋田の詩も、その段階を迎えていると思う。詩と思想と真理。

 詩を書く慾望の一つに、秋田の言う「自分自身の本質」や「真理」を捉えたいということがある。しかし、その思想的、哲学的な苦悩を詩に表現するときは、その方法について自覚的に格闘しなければならない。 その点、秋田の作品は「論理的な表現」にかたより束縛されていると思う。しかも、その論理的な結論が既成の世俗的な結論に帰着すると、詩は単なる説教かアジテーションになり、やせ細ってしまう。「世界とは/すでに成立している事柄の/総称である」(「破壊」)などという表現がその例である。

 これらのことは、私自身の弱点でもあり課題でもある。詩は、まずなによりも言葉の芸術である。したがって、むしろ論理的な表現からは飛翔していかなければならない。詩の表現方法で大切なのは、言葉の革命、感性の革命、イメージの革命だと、私は思い続けている。その結果、豊かなイメージやリズムが生まれるように努力するのだ。幸い、著者には「俺は今/いつかあいつになってやろうと/琉球の風に舞う燕を/いつも見上げている」(「走者」)という感受性がある。

 なお、最後に書かれている「アイヌ語」には日本語訳が欲しかった。アイヌ語辞典を引いて「シコメウェ ソノアンペ イタクラマツ」が「挑発と真理の言魂」と読めたのだが。

琉球新報 2005年9月18日 より

 元々私は、40歳を過ぎるまで詩集を出すつもりはなかった。水上勉さんにも「沖縄を肌で10年経験したら、きっと良い詩が書けるかもしれませんね」と言われていた。それが31歳で出すこととなった。
 きっかけは前年に起きた米軍機墜落事故である。あれほどの事故を目の当たりにして何かをせずにはおれなかった。しかし、焦りは思考を狂わす。結果として「挑発と真理」に収めた作品は、詩としては何ひとつ成立していないのかも知れない。米軍基地という大きな存在に、私自身の存在の誇りをぶつけてはみたものの、無意味に終わってしまったのかも知れない。
 この無意味な敗北を、どうにか繋ぎとめてくれたのが高良さんの書評であった。そのおかげで、私はまだ、走り続けることが出来ている。

スティーブ・ビコとの出会い

 スティーブ・ビコは思うに、あらゆる差別問題に完全な解答を示して見せたたった一人の人物である。彼が南アフリカで行った「黒人意識運動」は、ガンジーの非暴力、キング牧師の温厚な考え方、マルコムXの大胆さ、すべてを兼ね備えたものであった。

 それは、まず、白人の教育を受けた黒人に植え付けられた劣等感を取り除くことからはじめ、その上で白人と対決し、黒人を白人と同じ人間であると認めさせる。さらにその上で、白人と黒人の共存が実現するというものである。単純なことのように思えるが、差別問題に取り組む場合、これまでのものは、劣等感をまず取り除くことから始められたことはない。結果的には差別者を敵とし闘うものばかりだ。ビコは、間違いなく、マルコムX、キング牧師、ガンジー等かつての指導者から学び、それら総てを取り入れた全く新しい運動を展開した。

 キング牧師の場合、劣等感を取り除くのではなく、白人を愛せと説いた。白人にも理解ある人はいることに目をつけたのだ。白人を憎んでいない我々を白人が憎む理由は無い、というものがキング牧師の考えであった。マルコムXは、白人と黒人では、全く異なるのだから共存ではなく、黒人の意識を、黒人が最初の人間であるというイスラムの教えに見出そうとした。これらを見事に融合させたのがビコである。

 だが、ビコにも「対決」は避けることの出来ないものであった。黒人の意識を変えたうえで白人と対決する、と語る彼に裁判の席で、「あなたの言う対決とは暴力を生まないか?」という問いが発せられる。これに対しビコは「今、私はあなたとまさに対決している。ここに暴力はない」と言ってのける。非暴力による言葉による「対決」の宣言である。それ程に、彼は、強力な武器である「言葉」と「哲学」を所有していた。当時の白人による南アフリカ政府が、ロベン島に監禁されていたネルソン・マンデラを生かし、同じく監禁されていたロバート・ソブクエより、真っ先にビコを殺害したのは、まさしく彼の力量を恐れたからに他ならない。

 最後に、ビコの文化への定義は次のようなものである。

文化とは、本質的に人生の様々な問題に対する複合的な解答である

 人種差別に拘わらず、社会のあらゆる問題はこの「複合的な解答」を目指せば解決するはずだと私は考えている。これを目指さない社会、政府は病んでいるとも思う。またこの病は、嘗ての南アフリカのようにだってなりえるだろうし、第二次大戦中の日本のようにだってなりえるとさえ思う。たった一言なのだが、社会に対する考え方の根本を私はスティーブ・ビコの著書から教わった。当時の私はまだ10代であった。早くにビコに出会えたことは正しく幸運であったと言わねばならない。

【後記】
 上述の文章は、1999年、24歳の時に書いたものである。ビコの文化の定義は、今も私の根底にある。
 日本は、特に現在の安倍政権になってからというもの、「複合的な解答」を目指さない政治が続いているように思えてならない。

沖縄生活事情(2010年)

 近いうちにいくつか沖縄の貧困をテーマにした記事を書きたいと考えているので、その前に、2010年に書いた「沖縄生活事情」を記録しておきたい。長々と、全文そのまま引用しておく。

 沖縄は県民所得全国最下位の県である。
 沖縄振興開発事業費で毎年2000億円以上の予算が組まれ、軍用地地主におよそ800億円の土地代が毎年支払われているにも拘らず最下位である。さらに思いやり予算として毎年2000億円以上が米軍にあてられ、間接的ではあるが、米軍及び米兵が沖縄に落とす金があるにも拘らずである。米軍基地問題を語るとき、しばしば「アメとムチ」という言葉が使われるが、アメを口にするのはごく一部の人で、庶民はムチばかり打たれるのである。しかしムチを振り上げるのは米軍だけではない。
 

【何故県民所得最下位なのか】
 一言で言えば、給料が極端に安いからである。大抵の都道府県では、最低賃金で人を雇うことは少ない。求人広告に最低賃金での給与を掲載していたら恥ずかしい限りである。だが沖縄ではそれがまかり通る。しかもこれは沖縄企業に限ったことではない。全国展開している大手運輸業者の沖縄営業所の求人広告を先月目にしたときは、事務員で11万円台、配送員は12万円台であった。時給にすると650円前後、場合によっては最低賃金以下になるかもしれない。
 私はこれまで多くの沖縄の経営者と拘ってきた。彼らに機会があるたび「何故もっとスタッフに還元しないのか」と尋ねてみると、返ってくるのは決まって「沖縄は物価が安い」、「そんなことしたら会社がもたない」という言葉である。では彼らの経営する会社は「危ない」のかというと、そんなことはない。少なくとも私が知るこれらの会社は、ここ8年潰れてはいないし、そのほとんどが年商2億円以上である。中にはここ8年で沖縄県内に2店舗から7店舗まで大幅に事業拡大した小売業者もある。しかし給与は変わっていないようである。
 「幻想の島 沖縄」の著者大久保氏は「低賃金こそが問題」「沖縄ほど経営者が強い県はない」としているがそのとおりである。同著によれば、沖縄県内の売上高経常利益率は全国平均の1.7倍なのである。特に観光と情報通信は全国平均のおよそ3倍であるから、県全体で見れば、企業の経営状態は悪くないのである。しかし、求人広告には15万円以下の基本給が目立つ。断っておくが、沖縄では年齢にかかわらず、初任給が完全週休二日で18万円以上であれば悪くない条件である。さて、基本給が15万円だとして、昇給が年1回5千円あったとしても、月給が20万円を超えるのは10年後だ。当然のことながら、この給与の中から所得税や健康保険、厚生年金、市民税などが控除されるのだが、残った手取りで生きていくのは独り身でも楽ではない。それでも厚生年金や社会保険に加入していればまだ良い。未加入のままの企業も多いのだ。先ほど挙げた小売業者の場合も、3年ほど前と変わっていなければ、スタッフは20名以上で雇用保険以外は一切未加入である。
 最近の若者は働く気力が足りない、とよく言われるが、沖縄の場合はそれもそうだと私は納得できる。家族構成によっては生活保護よりも安い給与で働きたい人がどこにいるだろうか?
 この劣悪な雇用条件だと、人は雇われることに馬鹿馬鹿しくなる。であるから「自分で始めよう」とする者が多い。起業も倒産も他県に比べて多いのはこのためである。

【沖縄の物価は安いのか?】
 残念ながら安いとは思わない。私は沖縄の前には首都圏に暮らしていたが、衣食住、どれを比較しても安くは無い。家賃を東京と比較すると安いと言う人が多いが、東京の通勤圏と比較すること自体が間違いだ。電車30分で銀座や新宿に出られる地域と、車で30分かけて那覇に出られる地域とを比較することがおかしい。生活条件がまるで異なる。ちなみに那覇中心街に30分というと、私の暮らす浦添市くらいだが、各部屋6畳の2DKで家賃5~7万円が相場である。県民の所得を考えてみてもこれは高いと私は感じる。那覇からさらに遠ざかれば安い地域があるのも確かだが、それは各都道府県、田舎は安い。
 生活費を語る上で最も解せないのが電気代である。沖縄復帰特別措置法があり、莫大な減税を許されている沖縄電力だが、電気代は全国と比較して最も高いのである。火力発電が99%であるから高額であるのも致し方ないが、減税されている分を沖縄電力は県民に還元していると言う。つまり特別措置法がなくなれば、さらに高くなるのだ。これは、ガソリン、酒類、航空燃料費も同様である。そして私が不安なのは、特別措置法によりガソリン等が他県より安い事実を、知らない沖縄県民が意外にも多いということだ。
 次に食費である。大抵の沖縄県民は食費は安いと自負している。地場の野菜や魚介類が安いのは全国どこでも同じなので、比較にはならないのであるが、日本人の主食である米をスーパーで見ると、なるほど確かに安いものが目に入ってくる。5kgで1500円以下である。しかしよく見れば複数原産米である。他県からすると信じられないことであるが、複数原産米とは、コシヒカリやササニシキなど、ブランド米の余り物をブレンドした米だ。であるので、一つ産地のコシヒカリなど「普通の米」は、県外のスーパーと同じ、或いは輸送費のコスト分いくらか高いようである。
 沖縄は食費が安いのではなく、「安い物が売られている」と言える。千葉の漁港に揚がるアジほどの大きさしかないホッケや、年中解凍された秋刀魚が魚コーナーに並ぶ光景がそれを物語っている。冷凍された売れ残り秋刀魚が沖縄に流れてきているに違いない。1尾38円など、信じがたい金額がついていることもあるくらいだ。
 ただし、これは所得が低いことに対する売る側の企業努力でもある。同時に、移住するまでは気づかされなかったが、本土ではこれだけ「食べ残し」ているのだと思い知らされる。

【急速な開発と損なう景観】
 私が移住した頃は、那覇市おもろまちがまだ整備されていなかった。糸満市では西崎の開発が終わった程度であったが、この8年で豊見城で大規模な埋め立てがあり、糸満市も市役所移転に伴い大規模な埋め立てが行われた。東海岸でも西原町から与那原町にかけて、東浜と呼ばれる新興住宅地がやはり埋め立てにより建造された。そして那覇市のおもろまちには高層マンションや大型量販店が並び、県や国の重たそうな建造物も出来た。そのほか地域振興や産業支援型の大型建造物や、浦添市のてだこホールや国立劇場おきなわなどが現れた。まさに今、沖縄は箱物ラッシュの過渡期にある。見境なく建造し続けるさまは、本当にここは観光で成り立とうとしている県なのかと目を疑う。地域産業の集まりや、選挙演説などでは「本土に追いつき追い越せ!」という言葉が頻繁に聞かれる。「本土」とは一体日本列島のどの部分を指して言っているのだろうか。
 私は仕事柄日本全国多くの都道府県に赴いてきたが、建物と物の多さは、地方の県と比較すると、とっくに追い越していると思う。
 沖縄では8人に1人といわれるほど建設業界で働く人口が多い。この理由は本土復帰の歴史とも関連があり、長くなるので詳述を控えるが、建設事業はそのほとんどが昔も今も国からの補助金による公共事業だ。この補助金がなくなれば新たな建設にも歯止めがかかるのであろうが、同時に今あるホールなどの施設の運営もままならなくなるのは必定であり、建設業界も倒産が相次ぎ、さらに失業者が増えるであろう。だから建て続けるのだろうか。何とも言えない悪循環である。そして私が危惧するのは、返還後の普天間である。おもろまちのようにはならないと良いのだが。

【挙げればきりが無い沖縄生活事情】
 書き出してみるときりが無い。これが正直な感想である。であるので、今回は私個人の視点による生活事情の一部を書き連ね、ここで終いとする。
 最後に一言付け加えておく。沖縄には「沖縄のために自分に何か出来るのか?」と考える人が多く存在する。これは素晴らしいことではあるが、同時に、沖縄のために今の利便性を捨てる覚悟も必要となる時期が、すぐそこに迫っているのも事実だ。もっとも、沖縄本島すべてを小さな東京にしてしまいたいのなら話は別だが。

2018年の県知事選を振り返る

 沖縄のどうしようもない貧困を見てきた。基地問題よりも経済を優先する候補者が当選した時も「仕方ないか」と思ったものである。しかし昨年9月の知事選は違った。

 県知事候補の一人、佐喜真氏が市長をしていた宜野湾市は財政難にあって職員が不足している、といった話が耳に入ってきていたのである。
 そして昨年、1989年から長年開催されてきた「ぎのわん車いすマラソン大会」が宜野湾市社会福祉協議会の人手不足などが理由で中止となった。2020年に東京パラリンピックを控え、沖縄にはメダル獲得が期待される有力選手もいる。この絶好の機会に、イベントを盛り上げることが出来ないばかりか中止となったのである。基地問題を抜きに考えても佐喜真氏には任せられないと感じた。

 県内外を問わず、世間では基地問題ばかりが大きく報じらていたが、私の周囲では判断基準はそればかりではなかった。
 ある知人は「今回はデニーに入れる」と言っていた。理由は公約に掲げている「通学バスの無償化」だという。「実現しないかもしれないけれど、もしそうなったら助かるさ」 2人の子供を持つ父親はそう語っていた。一方の佐喜真氏が掲げていた公約「携帯電話料金4割削減」については「絶対に実現しなさそう」と感じたそうだ。
 手取り15万円前後で働く30、40代も少なくない沖縄。基地問題は近すぎて、あまりに遠い。

 基地問題を語るとき「アメとムチの構図」とよく言われる。この構図が成立する条件は「貧困」だ。沖縄が揺れ続けてきた根本的な原因は「貧困」であるのかもしれない。今回の県民投票はどう揺れるのだろうかと、気がかりでならない。

米軍ヘリ墜落事故について①

 以下に掲載するのは、2004年8月13日、沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落した事故の翌月、9月1日に沖縄タイムスに掲載された短文である。

  米国で同時多発テロが起き、自衛隊のイラク派遣が問題となった国会で「日本国内も例外ではない」という声があったと記憶している。起こるかどうか解らないテロで、憲法を軽視してまで派遣したのである。そして起こってしまった、8月13日の米軍ヘリ墜落事故。事故というが被害を受ける側にはテロと大差はない。これは米軍による公然たるテロリズムである。
 起きてしまったにも拘らずその対応は9.11とは異なる。日本政府も加害者であるからだ。今、安保条約を見直さなければ、最悪の事態は間違いなく起こるであろう。国内でのテロよりも確立は高い。
 私を含め、県民感情は「怒」と「恨」に支配されている。だがこれらを超えたところに真の理性はあるのではないだろうか。9.11と8.13とで全く対応が違う政府を、今、変えねばならないのである。我々の感情もまた、急がねばならないところにある。

2004年9月1日「沖縄タイムス」より

 当時私は「公然たるテロリズム」と使った。この「公然たるテロリズム」とは、黒人意識運動の指導者スティーブ・ビコが使った言葉である。
 米軍による事故は、国家によるテロリズムだと私には思えた。これが自動車の交通事故ならば、故意であろうが過失であろうが、加害者は罰せられるが、米軍機による事故はそうではなかった。当時の様子はまた別の記事にまとめるけれども、今思い出してみても、あれは紛れもなく「公然たるテロリズム」であったと思う。

2006年夏、沖縄米軍事情

 これから先、基地問題について語っていく上で、過去に私が書いた文章を掲載しておきたい。
 間違っている個所もあるだろうし、当時推測した内容が現状とはまるで異なっていることもあるかもしれない。しかし自分で見て感じたことを再確認したいという意図もあるので、そのまま掲載しておく。
 2006年に書いた「2006夏・沖縄米軍事情」である。

「2006夏・沖縄米軍事情」

 普天間飛行場以南の米軍施設の返還が話題になっている。普天間の名護市への移設について、沖縄の人々は日本政府とアメリカ政府に騙されたと感じているのだが、全国規模ではそうした報道が見受けられないのである。

 当初、日米両政府の説明では、簡単に言えば、普天間基地を返還、航空部隊の大部分をグアムに移転、残りを名護市へ移設、というものであったと記憶している。グアムへの移転については米政府がその費用、100億ドルの内の大部分を日本政府に要求したことは記憶に新しいところだ。そして名護に新たに建設される空港は軍民共同利用という予定であった。そうなれば明らかに沖縄に残存する米軍規模は縮小される。だが、それがある日一変した。
 名護に新たに建設される空港は軍事利用のみとされ、大規模なものが建設されることになったのである。1本の予定であった滑走路はⅤ字滑走路に変更され、普天間飛行場よりも大掛かりな空港が建設されようとしている。

 ここで問題になるのがグアムである。普天間と同等、あるいはそれ以上の空港を建設するのならグアムへの移転は従来の予定での規模では必要ないはずである。にもかかわらず、グアム移転についての規模縮小はされないままなのだ。
 名護の空港が完成したとしよう。恐らく戦闘機の飛行回数は最初のみ普天間を下回るであろう。だが、大規模なⅤ字滑走路を米軍が遊ばせておくとは考えにくい。徐々に、あるいはある日突然戦闘機の数も、飛行回数も格段に増えてしまうであろうことは容易に予測が出来る。今、発表されているのは普天間からの移転の数のみであって、新たに米国本土から移転されてくる数や他の基地から訓練で飛来する数等は一切語られていないからだ。
 古くなった普天間飛行場を捨て、新たにより最新の設備を搭載した軍事飛行場を建設するだけなのだ。これは断じて返還や縮小などではなく大幅な拡大である。
 そしてさらに100億ドルかけてグアムにも新たな基地を建設するのである。この大規模な基地は、普天間が縮小ではないのだから米軍にとっては新たな基地となる。新たに兵士を雇用することも出来るし、戦闘機なども購入できるのだ。しかも建設費用の大部分を日本が出資するのだからアメリカにとってはなんとも美味しい話である。沖縄は日米両政府にいいように騙され、事が運ぼうとしている。

 騙されたのは沖縄だけではない。岩国でも同様の詐欺行為が行われたのだ。岩国市では現在、空母搭載機の飛行訓練が行なわれているが、その滑走路は住宅街から1kmも離れておらず、住民は移設を切望していた。長い年月を経て、日本政府は今の滑走路をさらに海側へ移設することを岩国市へ発表、市民や関係者は喜んだ。発表後、この問題に関わってきた岩国市の人は、政府に感謝するとまで述べたのだが、ある日突然、今ある滑走路はそのままと発表された。移転ではなく増設であったのだ。当然飛行回数や騒音ははるかに増すことは避けられない。

 これだけの詐欺を行なっておきながら、政府は今ある機体数を分散し、と語る。施設が増えるのだから今ある数で計算すれば騒音被害も軽減すると言うのだ。しかし、本当の決定事項を伝える直前まで、地元の反感を買わないように異なる発表を行なう政府をどうして信じることが出来ようか。「夜は飛行しない」と言うが、私の家の上空は深夜でも早朝でも低空飛行が行なわれている。名護に移設しても、飛ぶに決まっている。そしてそれらは、ほとんど日本国民に知らされることがないのだ。

普天間の固定化という脅迫

 基地建設に反対する人に向けられる声の中に「辺野古移設を認めないと普天間が固定化する」というものがある。
 仲井真氏が県知事であった時、公約をひっくり返して辺野古沿岸の埋立を承認したころから、安倍内閣はまるで思いついたように「普天間基地の危険性の除去のために」と声高に連呼し始めた。
 それまでは普天間基地の危険性すら認めていなかったので、基地に反対する人の中には、「辺野古移設を進めるための口実ではないか」と半信半疑ながらも、「普天間を危険としたことは評価したい」と考える人もいたくらいだ。
 これが今では「辺野古移設を認めないと普天間が固定化するぞ」という脅し文句のようになっていて、こうした声は、特にニュースサイトのコメント欄やSNS上で目立っている。
 しかし、そもそも普天間返還が日米合意となったきっかけは何であったのか?そこを見直すのに実に分かりやすい記事があったので紹介したい。

 2015年1月10日、産経新聞に掲載された記事、『【ニッポンの分岐点 番外編(上)】〈普天間移設〉防衛庁長官も知らされなかった極秘指示 その時、橋本首相は賭けに出た』の冒頭にはこうある。
『平成8年2月(~中略~)首相に就任したばかりの橋本龍太郎は、初の日米首脳会談で大統領のクリントンに普天間飛行場の返還を切り出した。これが普天間移設問題の起点だ。きっかけは5カ月前にさかのぼる。7年9月、沖縄で米海兵隊員による少女暴行事件が起きた。日米地位協定の制約で隊員の身柄が起訴前に引き渡されず、県民の怒りが爆発。沖縄の反基地感情が大きなうねりとなった』
 つまり政府が動き出したきっかけは、海兵隊員による少女暴行事件に対する沖縄県民の感情であったのである。そしてこの後、日米で返還が合意されるのだが、記事の最後にはこうある。
『ただ、沖縄だけは手放しで喜んではいなかった。普天間飛行場の機能を県内に移すことが返還条件とされたからだ。』
 このことからも、合意直後から沖縄は県内移設に反対していたことが分かる。

 確かに普天間基地は危険な存在である。これはまた別の記事にまとめるけれども、米軍ヘリが沖縄国際大学に墜落した様子を目の当たりにした者として、私は「軍事空港は人が暮らす近くにあってはならない」との思いを強めた。だがそれ以前から、海兵隊の怖さを感じ続けている。日米合意のきっかけとなった少女暴行事件も、記憶に新しい2016年のうるま市強姦殺人事件も、海兵隊員ないし海兵隊に所属していた者の犯行であった。もちろん全員とは言わないが、海兵隊は明らかに空軍や海軍の人たちとは様子が違う。
 普天間基地が辺野古に移設されたところで、海兵隊は沖縄本島に駐留し続ける。それも日米地位協定の見直しもないままだ。これでは過去に起きた不幸な事件が繰り返されるかもしれない。このことは、私が辺野古移設に反対する理由の一つである。
 そして「辺野古に反対なら普天間が固定化する」という脅し文句は、私には「海兵隊を沖縄に固定化する」と言われているようにしか聞こえないのである。