宮古島狩俣の神歌について、2000年、24歳の頃に執筆した記事である。特に書き直すことなく、以下そのまま掲載する。
宮古島の北端に近いところ、そこに狩俣という小さな集落がある。そこは、神と人とが共存している数少ない集落である。
狩俣の神謡(ニーリ)を知ったのは、以前勤めていた出版社から出されていた谷川健一の「南島文学発生論」であった。それ以前から幾度も読んでいた黒田喜夫の評論にも登場するが、ニーリについて「知った」と思えたのは、谷川健一氏の著書と出会った時だったのである。
それからというもの、何故か私はこのニーリの虜になってしまっている。どこかアイヌの神謡(カムイ・ユーカラ)に似ているからだろうか。私の現在の琉球への関心と想いは、まさしく、このニーリと出合ったときから始まる。ここでは出来うる限り簡潔にニーリについて述べてみたい。そして読者が、ただのリゾートとしてではなく、沖縄戦の歴史は勿論、それ以前より伝わる琉球の調べに触れる旅をしていただけたなら、それ以上に嬉しいことはない。そこには忘れられた大和と、ひっそり呼吸を続ける琉球とがあるはずである。
狩俣のニーリは、「祓い声」(ハライグイ)と呼ばれる村建の謡から始まり、七つのニーリが次々と謡われていく。ニーリが謡われる状況はというと、狩俣の中心であるムト(元=神社の原始的な場所の小屋)である、ウプグフムト(大城元)に村の男達が入り、酒を飲み、寝て待つ。すると突然怪しげな声とともに、ウヤガン(祖神)と呼ばれる老女たちが現れ、小屋の戸や壁をたたき出す。男達が目覚め、戸を開け、外を見る。するとそこには、神々が月明かりのなかで謡い、踊っている。ウヤガンは十四の神謡を明け方まで謡い続ける。男達はその途中で当然眠ってしまい、目覚め帰路につく。ざっとこのような感じである。
神事を司るのが女性であることは、琉球の他の地方と同様である。だが、ここには明らかに二重の神話が存在する。一つはまさにウヤガンたちの謡うニーリである。このニーリは、狩俣の祖神である神々一柱一柱の事蹟を謡った叙事詩である。事蹟というのは実は正確ではない。というのも、今まさに神が活動しているさま、つまり現在形で謡われているのである。そして、あるニーリでは、始めは三人称で謡われているのが、いつのまにか一人称になる。恐らくその瞬間に、神は歌い手に依り憑くのだ。またニーリは説明的でもあるので、現在形のほうがより効果的である。そして、神話が現在形で謡われる限り、それらはまさに今この時を謡うものとなる。今こそが始まりの時なのである。神話が現在形で謡われる社会では、変化することを嫌う社会であることと通じている。社会のあり方がニーリによって定められており、その通りにしてゆけば、安定した生活をしてゆけるというわけである。二重の内の一つ目の神話は、進歩を否定することから始まったのである。
二つ目こそが非常に興味深い。ニーリを聞き、目覚めた男達のその後である。何しろ始めは戸を明けると神が依り憑いた老女達が歌い踊っているのである。それが明け方まで続くものだからとうとう眠ってしまうわけだが、眠っている最中は神々の歌声をBGMにしてしまっているのである。目覚めてからが大変である。彼等は家に帰るなり、昨夜神を見た、その声を聞いたと言い出す。これは当然集落中に噂として広まる。これが二つ目の神話である。
と、ここまで紹介したのが、狩俣の冬祭の模様である。これとは別に、男達がニーリを謡う夏の豊年祭がある。といっても矢張り神事は女性が司るので主役は男ではないのだが、こちらの豊年祭のニーリでは狩俣の農耕の歴史を総て聞くことが出来る。
琉球を素晴らしいと思う何よりの理由は、こうした神話や風習がしっかり生活に根付いていることである。こうしたものが残っている理由は、琉球が地理的にしか支配されてこなかったことにあるように思う。明や島津藩、明治政府、そして米国。これらは、貿易の中継点であったり、軍事的支配であったり、場所の確保が目的のものであったので、人びとの習慣すべてを変えるに到らなかったのではなかろうか。
しかし、本土復帰後の沖縄に対し、日本は経済的支配を行っている。本土企業は次々に沖縄へ進出し、島全体をリゾート化していった。依然として巨大な米軍基地は存在しているわけだから、軍事支配と経済支配との両方をうけていることになる。日本本土を見ればよくわかると思うが、方向性を見失った経済社会の発展はそれまでの民衆の文化を根底から覆す。各地で行われている祭りは、最早ただのイベントとしかいえないものが多い。
かつて、アイヌのあらゆる文化が同化政策によってすべて滅ぼされた。復帰後、沖縄も同じ様な運命をたどっているように思えるのは間違いであろうか?何度も述べたが狩俣のニーリは現在形である。新しい神話が誕生してもいい。日本津々浦々、現在形で歌っていただきたいものである。このような理由から、忘れられた大和が、確かに狩俣には存在している、そう感じるのである。