宝井其角と今泉準一|対象を有情とすること

 宝井其角。江戸前期の俳諧師である。松尾芭蕉の門に入り、蕉門十哲の第一の門弟とされている。今泉準一は、この宝井其角の研究を続けた学者である。
 其角については「よく分からない」という評が昔から多い。私自身、其角の作品と対峙してみても、どうにもその良さがよく分からないでいたのだが、今泉準一の著書「元禄俳人宝井其角」と出会い、それが一変した。

 其角の自選句集「五元集」に収録されている句に
    浅草川逍遥
   鯉の義は山吹の瀬やしらぬ分
というものがある。これだけ見ても私にはさっぱり分からない。今泉準一によると、高浜虚子、内藤鳴雪ら相当たる顔ぶれによる座談形式の五元集研究において、この句について色々意見は出たものの「よくわかりません」という結論に至ったそうである。
 この句の一般的な解釈を見てみると、先ず浅草川とは隅田川のことである。隅田川の鯉は美味で知られていたが、其角が詠んだ時代ではそれも昔のことになっている。山吹の瀬というのは謡曲でよく知られた当時は有名無実となっていた宇治川の名所だそうである。つまり、隅田川の鯉の美味さは、山吹の瀬と同じように知られなくなってしまった、という句になる。
 このように説明されても、この句のどこが優れておるのか分からない。まして私には謡曲の知識が欠片もないから「よく分からない」以前に「さっぱり分からない」という壁にぶち当たり、一般的な解釈にすら辿り着くことがない。
 ところが、今泉準一の解説によると、この句には全く異なる意味があるというのである。参照元は省略するが、其角没後18年後に生まれている旨原という俳人が弟子に口述した解釈から今泉はこう記述している。

綾瀬のあたりが御留川(おとめがわ、漁業禁止の川)で、ここでの鯉が山吹鯉と言って名物である。川守り(かわもり、漁業禁止を見張る人の意でろう、もちろん渡守の意にとっても通じる)にすこし金子を与えこっそり魚を買う、役人の方は「なにしらぬぶん」というわけで、朝政(ここでは幕政)を諷した句だ、という解釈である。つまり「鯉ノ儀ハ山吹ノ瀬ヤ知ラヌ分ニ致シテオク」という武士口調のもじりの諷刺句だというのである。したがってここでの山吹は金子あるいは小判の隠語である山吹の意にとっているのであることがわかろう。

 高浜虚子らが「よくわかりません」と結論付けたこの句も、当時そこに暮らした人々の様子を知れば、まるで意味が変わってくる。しかも表向きの意味は、「隅田川の鯉の美味さは、山吹の瀬と同じように知られなくなってしまった」という何の変哲もない句なのである。恐らくこの句を耳にした当時の人の中には「其角ってのはなかなか上手い事言うもんだねえ、洒落が効いてるじゃないか」と言った者がいたに違いないのである。
 長く時が流れたならば、流行り廃りは繰り返されるのであろうし、人の感性も変わってしまう。1874年生まれの高浜虚子に分からぬものを、其角の時代よりさらに100年遠く、1974年に生まれた私に分かるわけがないのは、ある意味当然である。古典と対峙する際に必要なものとは、当時の人の感性を想像する準備をしておくことであると言えよう。対峙した時には全く分からないものであっても、その背景に何か当時の様相があるに違いない、ということだけでも想像できれば、後に調べることも出来る。その準備すらせぬまま「よくわかりません」と結論付けてしまっては、最早研究とは言えまい。
 その時代の感覚を理解し、想像し、その上で鑑賞しなければ、芭蕉も其角もよく分からないものでしかないのである。そんなことは百も承知だと思っていたが、このあまりにも常識的なことを身をもって知るまでに、私は実に20年以上の歳月を費やしてしまった。

 ところで、この感性を想像することは現代にも通じるものがある。例えば今泉準一は「元禄俳人宝井其角」の中でこう書いている。「対象を有情(心のあるもの)として把握する思考様式は、詩という狭い領域に押しやられてしまっているとはいえ、なお現代でも生きている」と。
 「対象を有情」とは、近代以前で言えば、自然を神とする神事などが挙げられるのではないだろうか。現代社会では、例えば幻想的な色彩を放つ泉が見つかれば、観光スポットにはなるだろうが、神が宿る場とはならないであろう。だがそうした光景に神が宿るとして祀る人々がいたのである。
 「なお現代でも生きている」のは何も詩だけではない。例えばガルシア・マルケスの「百年の孤独」に出てくるあまりにも有名な「ものにも命がある。問題はその魂をどうやって揺さぶり起こすかだ」という一節。これなぞまさしく「対象を有情」とすることに他ならない。
 今を生きる我々は、現在に呼吸する詩人は、「対象を有情」とすることに自由でなければならない。「元禄俳人宝井其角」から、そして今泉準一から、学んだことである。

(追記)
 詩人の飯島耕一さんは、其角研究の第一人者である今泉準一を御茶ノ水の寿司屋に誘い、熱心に話を訊いたこともあるほど其角に傾倒した人である。1998年の著書には、「『虚栗』の時代―芭蕉と其角と西鶴」(みすず書房)があり、その参考文献欄には今泉準一の著書も並ぶ。
 実は今泉準一は、私の大叔父にあたる人である。詩の出版社である思潮社に勤務していたことがある私は、大叔父である今泉準一の訃報を飯島さんに送ったことがある。幸運にも私は、その後何度か飯島さんと言葉を交わす機会に恵まれた。飯島さんが私との会話に求めたものは今泉準一と其角についてであった。思潮社にいた経験があり今泉準一の身内であるのだから、其角のことを知っていると思われたのであろう。しかし、当時の私は「其角と芭蕉と」など、最近の大叔父の著書は読了していたが、其角の作品の良さを理解できずにいたので、飯島さんの期待に応えるには不十分であった。昭和44年に出版された「元禄俳人宝井其角」をもっと早く読んでおれば、また違ったのかもしれないなと、ふと思ったのである。

高良勉さんによる書評

 第一詩集「挑発と真理」の刊行にあたって、書評を書いてくださったのは詩人、高良勉さんだった。先ずはその全文を紹介したい。

 生真面目な詩集を、きまじめに読んでいる。秋田高志の詩集『挑発と真理』を読み進むと、さまざまなことを考えさせられる。

 永遠に混じり続ける物質を
 分析することなく認知せよ
 (中略)
 否定の苦痛に耐えつつ
 島に居座る絶望を疑え (「挑発」)

 おそらく秋田にとって第一詩集である本書を読むと、詩表現の原点である「ざまざまな道で苦悩し」(あとがき)続ける魂がよく伝わってくる。そして、言葉と思想が一つ一つ大切に表現されている緊張感が心地よい。通読すると「存在の誇り」、「真南風」、「走者」などの作品が強く印象に残る。本書は「言魂の詩集」と呼んでいいだろう。

 しかし、問題はここからだ。言葉と思想にこだわる詩人にとって、その表現の方法が問題となる。秋田の詩も、その段階を迎えていると思う。詩と思想と真理。

 詩を書く慾望の一つに、秋田の言う「自分自身の本質」や「真理」を捉えたいということがある。しかし、その思想的、哲学的な苦悩を詩に表現するときは、その方法について自覚的に格闘しなければならない。 その点、秋田の作品は「論理的な表現」にかたより束縛されていると思う。しかも、その論理的な結論が既成の世俗的な結論に帰着すると、詩は単なる説教かアジテーションになり、やせ細ってしまう。「世界とは/すでに成立している事柄の/総称である」(「破壊」)などという表現がその例である。

 これらのことは、私自身の弱点でもあり課題でもある。詩は、まずなによりも言葉の芸術である。したがって、むしろ論理的な表現からは飛翔していかなければならない。詩の表現方法で大切なのは、言葉の革命、感性の革命、イメージの革命だと、私は思い続けている。その結果、豊かなイメージやリズムが生まれるように努力するのだ。幸い、著者には「俺は今/いつかあいつになってやろうと/琉球の風に舞う燕を/いつも見上げている」(「走者」)という感受性がある。

 なお、最後に書かれている「アイヌ語」には日本語訳が欲しかった。アイヌ語辞典を引いて「シコメウェ ソノアンペ イタクラマツ」が「挑発と真理の言魂」と読めたのだが。

琉球新報 2005年9月18日 より

 元々私は、40歳を過ぎるまで詩集を出すつもりはなかった。水上勉さんにも「沖縄を肌で10年経験したら、きっと良い詩が書けるかもしれませんね」と言われていた。それが31歳で出すこととなった。
 きっかけは前年に起きた米軍機墜落事故である。あれほどの事故を目の当たりにして何かをせずにはおれなかった。しかし、焦りは思考を狂わす。結果として「挑発と真理」に収めた作品は、詩としては何ひとつ成立していないのかも知れない。米軍基地という大きな存在に、私自身の存在の誇りをぶつけてはみたものの、無意味に終わってしまったのかも知れない。
 この無意味な敗北を、どうにか繋ぎとめてくれたのが高良さんの書評であった。そのおかげで、私はまだ、走り続けることが出来ている。