初めて安谷屋正義の絵画作品を見たのは、佐喜眞美術館に展示されていた「白い基地」だった。安谷屋正義という画家について、全く予備知識がないまま絵と対峙し、私は「白い基地」に吸い込まれた。館長の佐喜眞さんに絵について伺おうとしたのだが、忙しそうで何も聞けなかったことを覚えている。
そして安谷屋正義という画家の名と「白い基地」だけが、私の脳裏に深く刻み込まれた。

次に安谷屋正義と出会ったのは沖縄県立美術館で開催されていた「ニシムイ展」であった。ニシムイとはニシムイ美術村のことで、那覇市首里に西森(ニシムイ)と呼ばれた地域があって、そこに東京美術学校(現東京芸術大学)出身等の画家たちが集った生活協同地域である。
ニシムイ展で、安谷屋正義の展示場に入ると、真っ先に「滑走路」が視覚に飛び込んできた。
正確には、飛び込んで来たのは「線」である。1963年に描かれた「滑走路」は、そのサイズが909×2180と安谷屋の作品の中でも大作であり、米軍基地の滑走路と米軍機とが、鋭い線を主体に描かれている。画と対峙した瞬間に私は、キャンパスから線が飛び出し、私の網膜に刺さり後頭部へ突き抜けたような感覚に陥った。そして視線を上げ再び絵を直視すると、線が眼に痛いのである。
この線は、鼓膜に突き刺さるような米軍機の甲高いジェットエンジン音、そして脳天から叩き潰されるような爆音であるように思えた。恐らく安谷屋は、滑走路を描き上げるまでに、幾度となく軍用機のエンジン音を耳にしたはずで、彼はキャンバスに風景だけでなく音も描いたに違いない。そう思えてならなかった。
そしてもう一つ、「白い基地」にしろ「滑走路」にしろ、安谷屋の作品からは沖縄らしさが感じられないことに気付いた。後に画集で確認してみると、おそらく1955年ごろを境に、安谷屋の作品から「沖縄らしさ」が消えてゆくのが分かる。
これはとてつもないことであると思えた。沖縄で表現された多くの芸術作品には、沖縄を想起させるものが含まれているものが圧倒的に多い。多くの芸術家が、沖縄という島に根ざし、共同体の中から自らを中心に物事を捉え表現を発していたのに対し、安谷屋はそことは距離を置き、全く別の場所で思考していたのである。
現代の沖縄でもこれは困難なことである。しかし、島の原風景を否定することなく乗り越えることが出来なければ、いつまでたっても「沖縄の」芸術と言われ続けることになるだろう。「沖縄の」と頭に付く限り、芸術も思想も、はては主義主張でさえ、他の地域からは一線を画したものとして見られてしまう。そしておそらく、乗り越えた思考だけが、島の外に伝わるのではないだろうか。
詩人、清田政信は安谷屋についてこう書いている。
南島を歌い上げる者たちの中で、彼等ほど無邪気になれず、むしろ「歌わない」ことを自らに課することによって「思考」の肉体を色と線はどれだけになり得るかという徹底した作風を生涯持続し得た稀有の例だと言えよう。それは「近代」を回避しないことだし、また近代にきたえられた眼によって、よく沖縄の風土に切りこんだ作品といえる。
また清田は、初めて安谷屋の作品をみたときのことをこう述懐している。
絵の前で言葉を失い、線というものがこれほど人の内部に衝撃するものかという思いに立ちすくんだ
恥ずかしい話であるが、詩を書く者でありながら私が清田の著書を読み始めたのはここ2,3年のことである。引用文はすべて、「情念の力学」に収められている「安谷屋正義論」(1979年)からである。
私と似た線の衝撃を清田も体験しているとなると、安谷屋の線の鋭さは相当なものなのだろう。清田は「沖縄の風土に切りこむ」「衝撃」という表現を用いたが、これは私の「乗り越える」という感覚と大差ないように思える。いずれにせよ、芸術表現にしろ政治的主張にしろ、今、私たちが必要とするものは、同時に失っているものは、安谷屋の線が持つ鋭さであり、線がもたらす衝撃であるように思えてならない。