第一詩集「挑発と真理」の刊行にあたって、書評を書いてくださったのは詩人、高良勉さんだった。先ずはその全文を紹介したい。
生真面目な詩集を、きまじめに読んでいる。秋田高志の詩集『挑発と真理』を読み進むと、さまざまなことを考えさせられる。
永遠に混じり続ける物質を
分析することなく認知せよ
(中略)
否定の苦痛に耐えつつ
島に居座る絶望を疑え (「挑発」)おそらく秋田にとって第一詩集である本書を読むと、詩表現の原点である「ざまざまな道で苦悩し」(あとがき)続ける魂がよく伝わってくる。そして、言葉と思想が一つ一つ大切に表現されている緊張感が心地よい。通読すると「存在の誇り」、「真南風」、「走者」などの作品が強く印象に残る。本書は「言魂の詩集」と呼んでいいだろう。
しかし、問題はここからだ。言葉と思想にこだわる詩人にとって、その表現の方法が問題となる。秋田の詩も、その段階を迎えていると思う。詩と思想と真理。
詩を書く慾望の一つに、秋田の言う「自分自身の本質」や「真理」を捉えたいということがある。しかし、その思想的、哲学的な苦悩を詩に表現するときは、その方法について自覚的に格闘しなければならない。 その点、秋田の作品は「論理的な表現」にかたより束縛されていると思う。しかも、その論理的な結論が既成の世俗的な結論に帰着すると、詩は単なる説教かアジテーションになり、やせ細ってしまう。「世界とは/すでに成立している事柄の/総称である」(「破壊」)などという表現がその例である。
これらのことは、私自身の弱点でもあり課題でもある。詩は、まずなによりも言葉の芸術である。したがって、むしろ論理的な表現からは飛翔していかなければならない。詩の表現方法で大切なのは、言葉の革命、感性の革命、イメージの革命だと、私は思い続けている。その結果、豊かなイメージやリズムが生まれるように努力するのだ。幸い、著者には「俺は今/いつかあいつになってやろうと/琉球の風に舞う燕を/いつも見上げている」(「走者」)という感受性がある。
なお、最後に書かれている「アイヌ語」には日本語訳が欲しかった。アイヌ語辞典を引いて「シコメウェ ソノアンペ イタクラマツ」が「挑発と真理の言魂」と読めたのだが。
琉球新報 2005年9月18日 より
元々私は、40歳を過ぎるまで詩集を出すつもりはなかった。水上勉さんにも「沖縄を肌で10年経験したら、きっと良い詩が書けるかもしれませんね」と言われていた。それが31歳で出すこととなった。
きっかけは前年に起きた米軍機墜落事故である。あれほどの事故を目の当たりにして何かをせずにはおれなかった。しかし、焦りは思考を狂わす。結果として「挑発と真理」に収めた作品は、詩としては何ひとつ成立していないのかも知れない。米軍基地という大きな存在に、私自身の存在の誇りをぶつけてはみたものの、無意味に終わってしまったのかも知れない。
この無意味な敗北を、どうにか繋ぎとめてくれたのが高良さんの書評であった。そのおかげで、私はまだ、走り続けることが出来ている。