芸術について

芸術が人の生死に関わるほどに必要なものかと問われれば誰もが否と答えるであろう。芸術が無くとも人は生きてゆけるし、芸術があるからこそ生きてゆけるということも無い。にも拘らず、芸術は人類の文化史上常に存在し続けてきた。これは或る特定の人々にとって、芸術がなんらかの意味を持っていることの証でもある。

同じことを旅に置き換えてみると芸術の持つ意味と無意味さが容易に理解できるであろう。人は旅などしなくとも生きてゆけるが、昔から旅を続けてきた。幸田文は、旅はまことに人のこころのありようを問うものである、と言っている。同感である。旅にも質があり、その人の性格そして生活も表れる。現代で言えば、リゾート化された完全に用意された旅に出るのと、自らその地方の文化の根源や自然に少しでも触れようとする旅とでは矢張り質が違うと感じる。

芸術の場合も同様であって、人によってその種類、質も変わってくる。芸術はそれぞれの価値観で判断してもらえばそれで良いのだが、私の場合、本物とそうでないものとを、明確に見分ける。勿論自分の価値観によってである。そして私がおよそ芸術とは思えない音楽や文芸を必要としている人もいる。陳腐な言葉が並べられ、まるで人生の表面だけを歌う歌詞を必要としている人もいるのである。または、魂のかけらもないただ綺麗なだけという絵画を必要とする人もいるのである。そして私がそのように思う作品の制作者は、例外なく、誰もが気軽に楽しめるものを作るなどと述べているのである。意図的により多くの人に支持されるようにということは、より表面的にすることに他ならないと私は断言できる。最初から支持されることを願う人を私は芸術家として認めることが出来ない。また、そのような芸術を好む人々は所詮それだけの生活しかしていないのである。生活というのは、その人の思想や感情も含めてである。

何も芸術だけに限ったことでは無い。あらゆる趣味というものが表面的になり、気楽に手軽にというようになりつつある。みんなと同じでなければ不安でしょうがないという現代の病の根源はここにあるのではないかと、私は疑っている。ジョン・スタインベックは「アメリカとアメリカ人」の中で、滅び行く国民は例外なく美は去った、詩は枯れたとあきらめると述べているが、今の日本はその状態を進みつつある。旅にしろ芸術にしろ、あらゆる趣味というものは「心のありようを問うもの」と確かにそう思うのだが、ここまで人の感情や思想が表面的になってしまうと、心のありようもへったくそれもない。中途半端な自己満足のオンパレードである。

芸術に限って言えばこの問題を解決する手立ては一つしかない。最も単純なことではあるが真剣に取り組み続けるのみである。そして鑑賞する人びとが思想的、感情的に真剣になる時代には良くも悪くも必ず評価されるのである。取り急ぎ、我々に今出来ることは、この真剣さの火種を消さずに置くことである。何故そのようなことが必要なのか、その理由は人びとが心のありようを問われるとき、真剣なものを必ず必要とするからである。そしてそれが芸術である人も確かにいるのである。確かにいることはこれまで芸術が存在してきたことが何よりも証明してくれるであろう。そして過去にも現代の日本のような時代は当然あり、そのような時代には、芸術家の心のありようが問われ続けるのである。

【追記】

この個人誌を始めてから、数人の詩人から何故詩は読まれないのかという内容のメールを戴いた。この小論で返答とさせていただく。