絵画論ピカソ、ジャコメッティからの考察

一口に絵画といっても、その歴史は恐ろしく長いので、ここでは20世紀中頃の絵画を、ピカソを中心に考察してみたい。といっても私は、絵画については、読み終えた本、見たことのある絵と同じ程度の知識しか有さない者である。また、詩に関わる人々と、芸術について言葉を交わしたことはあるが、画家や作品について語り合った記憶が無い。つまり、これから述べることが、どの程度深く考察したものであるかを、私自身全く予測がつかないことをお断りしたい。

picassoピカソを中心に述べるのは、本論を写真と絵画の関わりから始めたいからである。写真の出現と、写真家の活躍が画家とその作品に大きな影響を与えたことは、今更述べるまでもない周知の事実であろう。一般的に絵画は、写真以前と以降とで大きく変化しているのである。写真があるから絵が変化した、というたったこれだけのことなのだが、当時その渦中にいた画家の衝撃を想像していただきたい。今まで描かれてきたものは、レンズを通して見事に固定されてしまうのである。おまけに動画も出現してきて、瞬間の連動も可能になってしまった。おそらく殆どの画家は、「何を描けばいいのだろう」と考え込んだはずである。印象派であろうが、アカデミーであろうが、写真への対処法を考えないことには、描くことが出来ない時代があったのである。現在でも、写真や動画が絵画を侵食したと考えている美術評論家は少なくないように思える。そうした中、ピカソは、「写真が絵画に自由をもたらした」と明言しているのである。

ピカソが写真家ブッラサイに次のようなことを語った記録がある。「あなたが写真で表現するものを見れば、最早絵画の関心事であり得ないものすべてが解る。レンズのおかげで見事に定着させることの出来るものをやりなおすのに、どうして芸術家がしがみつくだろう。写真は、絵画を文学や逸話、主題さえもから解放するために丁度よい時期にやってきた。主題のある面は写真に属している。画家はせっかく取り戻した自分達の自由を、何か他のことをするために利用しない手はない」。つまり、写真以前のような、宗教画や肖像画を描くことの強制もなければ、遠近法に従って、そっくりに描く義務からも解放されたのだ。ピカソが自由を取り戻したと言っていることからも、絵画は本来自由なものであることが理解出来る。長いこと、義務的な絵画を描かなければ食べてゆけない時代があった、ただそれだけのことである。そしてピカソは、過去の自由ではなく「何か他のこと」を目指したのである。

画家は自由を取り戻したのであろうが、美術評論家や鑑賞者は恐らく不安になったことであろう。何が描いてあるかわからない、そうした不安が写真以降の絵画に生じるはずである。技法などに全く疎い素人の私なら尚更である。鑑賞者の多くの意識は、このように、何かが描かれているはずだ、という固定観念に縛られている。だから一般に、その何かを自分勝手に決めつけることの出来る絵は、その鑑賞者には好きな絵であり、何も見出せないものはどうでもよい絵となる(自分勝手と書いたが、それでよいのである。画家が自由に描くのなら、鑑賞者も自由に見るべきである)。商業主義的な絵が多く出回っているのはこのためではないだろうか。実例は挙げたくはないが、こうした絵は、鑑賞者の固定観念を意識しているか、画家自身に好きな絵があまり存在していなのではないだろうか。後者の場合、明らかに想像力の欠如である。

では全く鑑賞者に媚びる必要はないかというとそうでもない。なにしろ、何が描いてあるかわからない絵というものは非常に多く、誰に聞いたらよいかわからないのだ。美術雑誌の編集者や、評論家もそこで悩み、画家本人に訊ねることが多い。だが、画家という人種はそれを言葉で返答することを困難とするのである。マルセル・デュシャンのノートを見ても、言葉を読み取るのにすら、想像力を必要とするのだからたまったものではない。だからこそ、タイトルのひと言は重要である。タイトルは鑑賞者に媚びても良いし、からかっても良い。

私はピカソの「パイプをくわえた男」が好きである。しかし絵の中にはパイプをくわえた男がいない。衣服のボタン、パイプ、新聞紙の断片などが認められるぐらいだ。そしてタイトルから私は、「パイプをくわえて、新聞を読んでいる男」を連想する。この時点でパイプをくわえた男という自分自身の固定観念に浸かってしまっているのだ。タイトルに従って鑑賞してしまった結果であるが、肝心の絵は、パイプをくわえた男を見つけるようには描かれていないのである。恐らくピカソは、こんな見方はするなという意思でタイトルをつけたのではなかろうか。でなければ、私をからかったのだ。その後改めて絵をみれば、その色彩からパイプの匂いがしてくるのである。確かにモデルがいたのであろうが、その部屋に充満するパイプの匂いをピカソは気に入って、匂いを絵にしたのだと、私は自分勝手に決めつけることが出来た。だから好きな絵である。パイプの匂いは、私も嫌いではない。

ピカソはこうした自然的な感覚を絵画にすることに長けているように思う。「私は探求しない、発見するのだ」、「人間は自然の道具である」、「あらゆる物を尊敬せよ」という言葉は、自身の口から出た数少ない適切な言語表現なのではないだろうか。

giacomettiこれと対極に、探求し続けた芸術家がいる。ジャコメッティである。矢内原伊作が著書「ジャコメッティ」に、ジャコメッティのピカソ評を記している。「悪いモネ、悪いコローは決して存在しない。いい画家が悪い絵を描くことは考えられない。ピカソはモネでもコローでもない。ピカソの場合、いい絵にも悪いところがあり、悪い絵の中にもいいところがある。これは危険なことだ」と。このいいところというのは、恐らくピカソの自然に対する感覚が純粋に統一されて表現されていることである。悪いところというのは、感覚の中に入り込む社会性のことであろうと思う。ピカソの自然への感覚において、現実社会がそれを分裂や陰り、歪みなどを生じさせるに違いない。だからこそ、彼の絵は時に歪み、分裂しているのではなかろうか

ジャコメッティはこれを危険だという。しかしこの危険があるからこそピカソはピカソに成り得る。ジャコメッティもそのことは当然解っているはずだ。危険というのは絵画一般の範疇ではなく、ジャコメッティにとって危険という意味であろう。ピカソが新しい感覚を、次から次に発見し表現していくのに対して、ジャコメッティは制作する対象が、対象となる理由を隅々まで探求し、無駄を取り除き、制作し続けたように考えられる。先ず、直接見えるものでなければ、制作の対象にはならないのだ。故に、ジャコメッティにとっては、ピカソのような歪みや分裂といった側面は、削ぎ落とされるべきものであり、作中には無用のものとなる。

ただし、ジャコメッティは見ることを超えて、対象がそこに在ることを探求しているように感じる。「アネット」でもそうだが、知覚の範囲を超えたものを女性の姿に捉えているように思えるのだ。ピカソのように自然に向けた感覚に社会性が流れ込むのではなく、社会そのものを自然とは隔ててジャコメッティは捉えているようでもある。確かに人間という生き物だけが自然から切り離された状態で社会を形成させてきた。社会の中で自然を感じたいがために人工の公園などを造ったりもしている。だからこそ感覚できない自然を対象の内に探求するのであろう。また、そういう意味では、人間が自らを人間であると意識した時から、絵画はすでに存在するのである。

セザンヌの、「自然を模写しようとしたがどうしても出来なかった」という言葉を読み、ジャコメッティは悩む。「どうして出来ないということが解るのだろう。私には納得できない」と。彼の表現に対する姿勢が現れているようで興味深い発言である。セザンヌが「出来ない」と言うとき、ジャコメッティには二つの疑問が生じたに違いない。一つは「セザンヌは探求の限りを尽くしたのであろうか」というものであり、もう一つは「探求していないにしても、出来ないというのは、すでに自然を捉えていることになりはしないか」と。ジャコメッティの姿勢とは、恐らくこうしたものであり、見方を広げれば、彼は、絵画の本質、芸術の本質を探究し続けた画家であるといえる。ただし、それを、自己の本質と言い換えることが出来ても、決して人間全般の本質ではなかったと私は確信している。彼の描く肖像画も、モデルとなる人の本質を描くのではなくて、モデルを自らの手で削り、剥ぎ落とし、ジャコメッティ自身の感覚とその本質に照らし合わせているように感じるのだ。モデルとなる人物の生命を、自己の内に取り込むこともなく。しかし、このことこそ、ジャコメッティがジャコメッティであることの条件でもあるのだ。そしてこのジャコメッティを批判し、人間の本質を作品の内に見出そうとしたのが、恐らくルオーなのであるが、それはまた、別の機会に述べることとしたい。

極論であろうが、私は絵に関する限り、ピカソやジャコメッティのような、感覚への接し方を発展させてゆく以外に道はないのではないかと思う。受け継ぐのは、技法ではない。やるべきことは、まだ誰もやっていないことでもない。感覚の探求と発見である。文中にも述べたが、恐らく絵画は人が自然と切り離された状態、つまり大なり小なり文明社会を形成した時点ですでに生れているものなのである。そして、人が口から音を発した瞬間、それらは総て詩で、その耳が音を捉えた瞬間に音楽は生れ、人が人に語りかけた時点で物語は生れているのだ。人間が人間であることを意識したのはいつなのだろうか?そのときこそ、あらゆる芸術の誕生した瞬間であろう。芸術家が、無意識であろうが意図してであろうが、感覚の探求と発見を目指した作品は、絵画に限らず、人間が人間であることの理由に帰着するものである。それは、芸術が生れた瞬間より、唯一変わることのない芸術の本質である。であれば、ピカソの莫大な発見も、ジャコメッティの執拗なほどの探求も、行き着くところは大差ないのだ。

(追記)

美術評論など私には到底書けるものではないが、感覚を基盤にした評論が昨今極めて少なくなっている。感覚を自分勝手に記した評論こそが本物であり、絵画の本質を見る指針になりえると思うがいかがであろうか。

私は、絵画に限らず、芸術に関しては保守的であると自負している。しかし、新しいものが嫌いということではない。新しいものに対する考えが世間一般と異なるだけだ。絵画において、私が新しいものと定義するものは、絵画以前の感覚を、絵画の内に見出した作品である。そしてそのような絵には、未だ出会ったことがない。