水上勉の文章道

私の書棚には、水上勉氏の著作「虚竹の笛」がある。丁度、沖縄に移住しようとしていた頃に戴いた本で、水上氏の署名の入った、私にはもったいない一冊である。本書は第二回親鸞賞を受賞した作品であるが、この本について語った水上氏の言葉が忘れられない。

水上勉

「文章道を行くのであれば、私は先輩たちの名作から学び、文章道にもとらないようにしたいものだと思います。『虚竹の笛』は、そういうことを書いておきたい本です。借り物の言葉を言ってすましているのは愚かです。この本には借りた言葉はないでしょう」

水上氏が、他人の文章について語ることは殆どない。過去の偉大な作家の作品の素晴らしさを語ることはあっても、水上氏の批判というものを私は聞いたことがないのだ。ところが、「借り物の言葉を言ってすましているのは愚かです」と言われたものだから、こちらは緊張する。自分自身を振り返ると、好きな作家や、思想家の言葉を知らず知らずの内に拝借してしまうことが少なくない。

水上氏の言葉は、現在の小説家にもあてはまる。というのも、現在の小説はごく一部の人を除いて、他人と大して変わらない作品を書いているように思えるのだ。例えば、著者や作品名をまったく見えない状態にして、過去の作家の本を読んでみるとよく分かる。井伏鱒二、井上靖、太宰治、志賀直哉、永井荷風など挙げればきりがないが、文体そのものが完全に各々異なるのである。だが、現在の小説家は、実名を挙げることは控えるが、他人の小説を、「これは私が書きました」といってみても何の違和感もないほどに似通ったものが溢れている。

さて、水上氏であるが、一語一語ゆっくりと、息をとぎれさせながら語る。丁寧に言葉を選びつつ語るので、話す言葉に隙が見つからないほどである。「虚竹の笛」は、日本人留学僧と中国の女性との間に生まれ、日本に尺八を伝えたとされる禅僧を軸に、小説とエッセーを交えて、日本と中国との文化交流を描いている。

「尺八の音を聴くと、禅宗の無の思想が伝わるように思えてならないのです。あの笛は何故なるのでしょうか。そう思います」
「人間には二通りある。無為の真人の修行の道と、それと無縁の道が、あるように思えます。笛を吹くことの出来る人間は前者に該当します。谷間の竹が、風の音を聴いて育ち、笛になるのです」

笛を吹くことの出来る人は、笛に共鳴するものを持っているということであろう。勿論それが禅宗であるとは限らないが、尺八の響きは計り知れないものがあると水上氏は語った。

私の書棚には水上勉氏の署名入りの「虚竹の笛」がある。それは水上氏の「宇野浩二伝」のとなりに置かれている。宇野浩二氏は水上勉氏の師匠にあたる人である。水上勉氏の作品は殆どすべて読んでいるが、「虚竹の笛」だけが署名入りである。今、私には目指すべき道がある。何をするにしても、無為の真人の修行の道である。現代の社会にはまるで縁のないこの道が、沖縄にいると、おぼろげながら見えてくるのである。