中原中也についてChuya Nakahara

中原中也は1907年に山口県に生まれ、若干30歳にしてこの世を去った詩人である。今でも、文学好きの若者に慕われている。世代を超えて若者に影響を与えているのだから恐れ入るばかりである。

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さて、中也についてであるが、世間では「少女趣味」だとか「軟弱」などと言われており、確かにそう受け止められてしまう作品も少なくは無いのだが、私に言わせれば、彼は宗教詩人である。もっとも彼は正規のキリスト教徒ではないのだが、それでもかなりな影響を受けていたと見ている。であればこそ、彼の詩には「恋愛」「美」といったような言葉がふんだんに使われているのだ。少女趣味と思われがちなのは、こうした言葉から連想されたものであって、実際の中也とその作品の理解から生じたものではない。中也の場合、キリスト教精神を活かし、自分の感受性を築きあげて詩にしているのである。では、何を詩にしているかというと、モラルとしての理想である。キリスト教がその根底にあるので、時に中也の詩は、あまりに道徳的で、そして理想主義的なのである。作品の中には、理想主義的なことのみに固執してしまい、表現として他者に通じがたいと思わざる負えないものもいくつか見られる。

理想主義的であった中也には、やらねばならない課題があった。それは「汚れ」を思想の中から取り除くことであり、汚れを取り除くことで、彼の世界観の健康状態は保障されるのである。作品に見られる楽天性はまさにここから来ていると言える。だがしかし、時に思想は、中也にとって不健康状態が続くこともあるのである。そういうときに彼は次のような詩を書く。

家族旅行と木箱との過剰は最早、世界をして理知にて笑わしめ、感情にて判断せしむるなり。―――――われは世界の壊滅を願ふ!

このように中也は、たまに苛立つのである。

ところで、中也のキリスト教精神であるが、恐らくはヴェルレーヌの影響である。例えば中也の

幸福は厩の中にいる
藁の上に。
幸福は
和める心には一挙にして分かる
という詩の発想は、以下に紹介するヴェルレーヌの詩に影響されている。
希望は厩の藁の一筋の如く輝く。
狂おしい飛翔に酔った蜂をお前は何とて恐れる?
御覧、幾筋かの隙洩る日光に埃の立籠めるのを。
卓に肘をついて、何故かお前は眠らなかったのだ?
勿論、これだけではない。中也とヴェルレーヌの両者の作品を読み終えた人であれば、他にも多数発見するはずである。カトリック教の宗教詩で金字塔を築いたヴェルレーヌに影響されれば、キリスト教的になってしまうのは仕方の無いことなのである。しかし、中也がヴェルレーヌと完璧に異なっていた点は、文明批判を行っていたことである。ヴェルレーヌの作品には文明批判は見ることが殆ど出来ない。このことに関して言えば、ランボーなどに近いのであろう。特筆すべきは、昭和初期において、文明批判を含んだ詩を書いていたのは、恐らくは中原中也ただ一人だということである。

中也の作品を読む際、ヴェルレーヌとキリスト教の影響を受けているのだということを前提にするとしないでは、その解釈の仕方が全く異なる。もし、機会があれば、「少女趣味」というレッテルを一度引き剥がし、熟読していただきたいものである。

また、私は、中原中也の「盲目の秋」の最初の2行に度肝を抜かれてしまった記憶がある。

風が立ち、波が騒ぎ、
無限の前に腕を振る

たった2行なのであるが、なかなか書くことの出来ない2行である。この2行を理由に、私は中原中也を、天才と位置づけている。