詩とは何か?これをテーマとした論議は、これまでの詩壇で幾度となくされてきた。また、書籍も多数刊行されてきた。絵画で言えば「絵とは何か?」となるこの究極の問いは、当然答えの出るはずもないのだが、それでもまだ、詩とは何か?詩に何が出来るか?という議論は消えることなく、多数の人々で同じ答えを出すことに夢中になっている。私はこうした議論に参加することは、自らを詩人ではなくて学者であると宣言しているように映るのである。
詩は学問ではなく、芸術形態のひとつにすぎない。であるから、詩とは何か?この解答は作者個人がそれぞれ所有すべきものであり、全く同じ人生は在りえないのだから、異なって当然である。詩人がお互いの詩についての考えや思いを語り合うことは大いに結構だが、大々的に、詩についての討論会などというものを行ったり、そうした内容の出版物が刊行されていることには合点がいかないのだ。詩の書き方のような本もあるのだから、恐れ入る。「こうでなければ詩ではない」というのであれば、それは最早、芸術ではないものとなる。以下、ここでは私個人の詩の定義を述べてみようと思う次第である。
まず、老子の道徳経から始めたい。沖縄に移住した頃に出あった「タオ」は、私のそれまでの人生観を変えるものであった。以降、私はほとんど詩というものを書けなくなってしまっていた。それまでの自分の知識や物事の受け止め方が間違っていたのではないかと感じ始めたのである。
例えば、老子の道徳経には「名前のない状態が天地の始まりである」とある。ガルシア・マルケスの「百年の孤独」や、これをモチーフに作成された寺山修司の戯曲では、まだあらゆる物に名前のない村が舞台となっており、村人達はまだ名前がないため、物にいちいち指を指さなければならないこととなる。「物にも魂がある。問題はどうやってその魂を揺り起こすかだ」と冒頭に登場するこれらの作品を、私は「日常性からの脱却を試みる」ものと認識していた。とんでもない誤解をしていたものだ。作者の意図は老子の言葉とは違ったにせよ、恐らくもっと深いところに在る。まだ名前のない状態まで一度もどって、現在と異なる名前をあらゆる物に与えていったらどうなるか?名前が違うと言うだけで、全く異なる世界がそこに誕生するであろう。
こうしたことは以前にも紹介した古いエスキモーの詩にも言える。「魔法のことば」と題された詩である。
ずっと、ずっと大昔
人と動物がともにこの世にすんでいたとき
なりたいと思えば人が動物になれたし
動物が人にもなれた。
だから時には人だったり、時には動物だったり、互いに区別はなかったのだ。
そしてみんなが同じことばをしゃべっていた。
そのときことばは、みな魔法のことばで、
人の頭は、不思議な力をもっていた。
ぐうぜん口をついて出たことばが不思議な結果をおこすことがあった。
ことばは急に生命をもちだし
人が望んだことがほんとうにおこった
したいことを、ただ口に出して言えばよかった。
なぜそんなことができたのか
だれにも説明できなかった。
世界はただ、そういうふうになっていたのだ。
この詩を読んだ時は、言葉は本来、魔術で、人の真の個性はここにある、と考えていた。これは今でも変わらないのだが、老子の言葉を読み終えたあとだと、さらに深く受け止めなければならなくなる。先に紹介した「名前のない状態が天地の始まりである」という言葉は勿論だが、老子の「万物は間断なく盛大である」という言葉は「魔法のことば」の最後の一行、「世界はただ、そういうふうになっていたのだ」にあてはまると感じたのだ。
言葉は本来、魔術である。だがその後、もしくは前に、間断なく盛大な万物を受け入れなければならなくなるのだ。でなければ、私は詩というものを言葉として生み出すことも、受け入れることも出来ない者となる。そう感じたのだ。
私はこれらを、理解しようとせずに理解することを試みたのだが、容易ではなく、2年以上の月日を必要としてしまった。言葉は本来、魔術であり、そして古来より、魔術とは自然に働きかける手段なのだ。では、自然とは何か?この壁にぶつかった。しかも私は意識的に考えようとしないで、この問いを記憶の底のほうにしまっておきながら、ただ感覚が閃くのを待ち続けたのである。そうして得た回答は、自然は真理によって構成される空間である、というものであった。この回答を得た今となっては、何の迷いもなく、私の言葉と、詩について語ることが可能だ。以下、まとめてみよう。
「言葉」は本来、魔術であり、「魔術」はもっぱら、自然に働きかける手段である。「自然」は、真理により構成される空間である。「空間」は時間を凝縮することを役目とするもので、「真理」は、人には実行の結果として感じられるものである。「実行」とは、利益を得ることを目的としたものではなく、「時」がくれば花を咲かせ、枯れ、種を撒く草木のごときものである。これらはすべて美であり言葉である。そして「詩」は言葉にすぎないのだ。
ここで初めて、私は自らの言葉で、「万物は間断なく盛大である」と言えると思うのだ。詩になりえる言葉を得たと感じてもいる。再び書き始めるのは、これからだ。