言語の変化への戸惑い

このサイトを始めたのは確か1999年のことであったと思うので、10年を過ぎたことになる。大学を出て、株式会社大地という会社にいた頃、私は同時に文芸誌の企画にも関わっていた。この企画の仕事から遠のいた頃、「あなたの考えていることをネット上に公開してみては」と数名の編集者から勧められたのがきっかけである。当時はブログというものもほとんど存在しておらず、ネットで文芸作品を公開している人も少なかったように記憶している。

WEBで個人誌を公開していながら言うのもおかしなものだが、私は実のところパソコンが好きではない。ところが仕事で否が応でもPascalなどプログラミング言語を覚えなければならなくなり、HTMLやCSSも知らぬ間に覚えてしまっていた。習慣とは恐ろしいものである。今現在も嫌いなのだが、苦ではなくなってしまった。「書く」ことより、「打つ」ことのほうが多いのが現状である。「書かねばならぬ」そう思いはするのだが。

さて、PC以上に嫌いなのが携帯電話である。周囲の人がほとんど持つようになっても私は携帯を持とうとは思わなかった。確かに便利なものではあろうが、この「便利さ」に恐怖を感じたからだ。当時、恐怖を上手く説明することは出来なかったが、携帯電話の使用によって、人間そのものが変わってしまうのではないか、そう感じたのは確かである。

しかし10年ほど前に感じた恐怖は、まんざら錯覚ではないようだ。世代で人を区別することは好まないのだが、携帯電話によるメールの使用を学生の頃から行い、それに依存してしまっている人々で、「謝る」ということまでメールで済ませてしまっているケースに何度となく遭遇した。メールで謝罪することは不思議ではないが、例えば、何かの約束を忘れてしまい、メールで「ごめんなさい」と送る。次に直に会ったときには、「この前はごめん」など何もないのだ。傍観者として遭遇したとき、当事者に後で、「謝らなくて良かったの?」と訊くと、「メールで謝ったから」と返ってきた。私としてはメールでは済まされる内容ではないと思うのだが。

昨今、若年層の携帯電話の使用を危惧する報道が多くなされている。だが私はそれ以前のことに不安を感じている。私は「メール」は、「手紙」や「話し言葉」とは全く別の言語であると認識している。この理由は、基本的なことであはあるが、表情であったり、書かれた文字の違いなどだ。メールにも個性がある、と反論されそうだが、私には同じ文字、同じ絵で、共通の漫画を書き上げているようにすら思えてしまうのである。

いずれにせよ、メールという手段が増え、定着したことで、人の思考にも変化が生じていることは間違いない。この変化を悪とはしないが、ただ、あまりに急速なだけに、私は恐怖するのだ。