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道徳経、第十四章

老子の書いたとされている道徳経。この第十四章を今回は検証してみたい。何故第十四章なのかは後で述べるとして、先ず第十四章そのものをご紹介しよう。といっても私の稚拙な和訳ではあるが。

しっかりと見ないから何も見えない。
それは形のないものと呼ばれる。
しっかりと聞かないから何も聞こえてはこない。
それは音のないものと呼ばれる。
しっかりと掴まないから何も掴めない。
それは実体のないものと呼ばれる。
これら三つをつきつめる事は出来ず、混ざりあって一つになっている。
上にあっても明るくなく、下にあっても暗くはない。
目に見えず、どのような名でも呼び様がない。
それはまた無にもどってゆく。
それは形のない形と呼ばれ、
イメージの浮かばぬ形と呼ばれる。
それはつかまえにくいものである。
近づいていっても顔は見えず、ついて行っても後姿は見えない。
遠い過去の「道」をつかまえ現在あるものを制御すると、原始の始まりが理解出来る。
これが「道」の本質である。

和訳にあたり、小川環樹氏訳注「老子」を参考にさせていただいた。

この章で、「道」は形は無く、音も無く、しかも実体も無いものだとされている。過去と現在は同じもので、それは形のあるものとないもの、存在と非存在の両方を包む。それは二重性と多様性の統合で、対立のない無限に打続くものである。以前、作家の水上勉氏が、「対立する二つの事柄を一にしてしまう。この一にしてしまうことが大切なのです」というようなことを言っておられたが、私は老子の道徳経を読み、氏がいかに中国文化に精通しているかを垣間見た思いがするのである。

もし、この第十四章をもって、芸術における表現法とするならば、それは対象の形を描こうとすることにはならない。美的感情は、形をこえ形の無いものによって、音をこえ音の無いものによって、我々を魅惑するのではなかろうか。そうした意味において、この章は美学上、非常に重要であると思うのである。西田幾太郎は「善の研究」でこう述べている。「形相を有となし形成を善となす泰正文化の絢爛たる発展には、尚ぶべきもの、学ぶべきものの許多なるは云ふまでもないが、幾千年来我等の祖先を孕み来つた東洋文化の根底には、形なきものの形を見、声なきものの声を聞くと云つた様なものが潜んで居るのではなかろうか」。

恐らくは、この第十四章は東洋文化の根底に位置するものである。東洋文化の基礎を理解しようと思えば、我々はこの章を徹底的に読み込まねばなるまい。また、西洋の美学を最大の基礎として疑わない日本の美学界及び美術評論界に、今、この第十四章の意義を問いたい。