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二十一世紀の平和論

戦争が絶えない。世界のどこかで必ず戦争が行われている。今に始まったことではないのだが、米国で起きた同時多発テロ以降、日本国内でも戦争を意識する傾向が高まってきたように思える。結果的には、戦闘行為をしない人道支援を目的として自衛隊はイラクに派遣されたのだが、自衛隊の派遣に賛成する人、反対する人、そのどちらにも不満の残る結果であったのではないだろうかと推測する。どちらが正しいのかをここで述べるつもりは無いのだが、私が注目するのは派遣に賛成か反対かと言う議論しか行われなかったこと、あくまでも人道支援を強調した曖昧な政府の決定、この2点である。

賛成か反対かの議論では民衆の変化がどうしても気になる。それ以前には、自衛隊そのものが違憲であるという声があったのだが、そうした主張や報道が全くといっていいほど無かったのだ。第9条に照らし合わせて「自衛隊の存在は違憲」であるという主張が、「自衛隊の派遣は違憲」であるという主張に変化したように感じられるのである。2004年現在、自衛隊の存在への反対の声はほとんど報道されていない。イラクに派遣された自衛隊の活動や帰国が報道されることで、自衛隊の存在を無意識に認めているのだろうか。また、政府の決定事項を曖昧と述べたが、これは派遣理由が国際社会に貢献すること、危険な地域に派遣するのであるから身を守る術を心得ている自衛隊の派遣が最も適当というものであり、第9条そのものに対しての明確な解釈ではなかったと思われるからである。

こうした変化や曖昧さは一体どこから生じたのかを考えた時、次のような推測がされる。アメリカ合衆国の顔色ばかりを伺っているからではないか?そうだとするならば、アメリカ合衆国の言動に合わせて第9条は解釈されるものなのであろうか?それは日本が敗戦国だからなのか?これらは恐らく正しいのである。だが、このような推測がされる理由には、平和についての定義の欠如が存在すると私は考えている。平和について定義を持ち合わせていない国家だからこそ、曖昧な決定を下すことが可能であるし、人の意識も流れるように変化してしまうのではなかろうか。

戦争とは何か?この問いに答えられる人は多くいることと思う。国内、国外を問わず、武力を用いて争うことである。勿論、戦争という語句には、受験戦争などのような、激しい競争という別の意味も存在する。では平和とは何か?この質問にたいする答えを想像していただきたい。今、あなたの想像は国家としての日本の言動に、本当に相応しいものであろうか。また、家族や友人と同じ想像をしているといえるだろうか。

私は本論で平和について述べてみるが、あくまでも私見であり、ひとつの考え方でしかないことをお断りしておく。本来、平和については常に議論され続けなければならないものと考えるからだ。もし、日本が平和主義国家であるのなら、それは個人、家族、地域、国家、すべての範囲で討議され、解答が出て然るべきである。そしてその解答は、真剣な討議の結果、変化していくことも必然であると考えている。真剣な討議による変化は、思想と哲学の発展でもあるからだ。

そもそも平和とはどのような状態を指すのであろうか。戦争への恐怖が深まるにつれ、この問いを耳にする機会が増えたように感じる。「平和とは」と題した知識人による講演もテレビで報道されたし、思想哲学の分野の雑誌でも特集を企画している。しかし、いずれも現状に生じる不安からか、イラクでの戦争、米国での同時多発テロを例に挙げ、そこから検証を試みるものが多い。すると、現在の世界情勢のあり方は本来こうあるべきだ、という結論に達してしまい、民族や宗教をこえて共存共生という結論に達してしまうのだ。これでは国家レベルの外交としてしか捉えることが出来ず、一般市民が平和に関わるにはどうしたらよいかという疑問が残されたままであるし、肝心の平和とは何か、という問いに対する解答としては不十分である。

平和という言葉の意味を知りたければ、国語辞典を引けば事足りると思われるかもしれないが、実はそうでもない。大抵の国語辞典には「戦争ではない状態」「穏やかな状態」といった解釈がなされている。穏やかな状態というのは、危険を感じない安全な状態と言い換えても問題はなかろうと思う。手持ちの英英辞典で調べると、例文に「市民の平和を守るのは警察の仕事だ」というものが出てくる。平和とは戦争ではない状態、つまり安全であることと先ず解釈され、そればかりが重要視されてしまっているのだ。英語圏でもそのようである。

安全性を追求しようとする時、真っ先に人が考えるのは我が身のことである。人間に限らず、生物であれば当然のことだ。個人がそうであれば、国や地域でも同様である。カントが「永遠平和のために」のなかで、「平和とはあらゆる敵意のない状態」と定義している。これには私もほぼ賛成である。問題なのは、我が身の安全を重視した際の、敵意のない状態を目指す手段だ。その最悪なものが武力の行使であり、強化である。防衛目的であったとしても、通常の軍事強化と何ら違うところは無い。安全と平和とを混同してしまうと、平和の定義を考えるより先に軍事優先してしまうのである。それが最も簡単に出せる答えだからだ。確かに安全であることは平和の条件であるのだが、戦争をしない平和主義を目指すのであれば、条件はこれだけではない。

ところが、武力を使用せずに、敵意のない状態を目指すことは困難を極める。誰もが敵意を感じない状態ということは恐らくあり得ない。100人集まり、共に生活をすれば、誰かが誰かに敵意を持つことは容易に想像が出来る。国家の数は地球上に100をこえているのだから、国家や民族のレベルでも困難を極めるのは必定である。そういう意味では、平和というものは存在しないものと言い切ることも可能だ。「平和な世の中なんてありはしない」と言われてしまえば、反論の余地は無い。それでもなお、戦争を否定し、平和主義を掲げる国家を目指すのであれば、カントの定義だけでは不十分なのである。しかし、私が「敵意のない状態」という定義にほぼ賛成なのは、防衛目的であろうと、武力を持つことは敵意を生む条件になりえるからである。敵意のない状態のためには、先ず武力放棄が最優先事項となるのだ。そして、カントの定義では不十分であるとしているのだから、武力を持つことは当然排除されるべきものとして論を進める。

カントの平和論では、国家レベルでの、政治干渉や武力行使は認めておらず、世界各国が実践すれば、国家間の戦闘は殆ど皆無となるであろう。だが、平和主義国家の樹立には役立つものではない。先にも述べたが、誰もが敵意を感じない状態はあり得ないのであり、資本主義国家であれ、社会主義国家であれ、経済的な生活不安も発生しうるので、穏やかな生活も保障されるものではない。故に、社会と呼べる規模の集団になれば、平和はその内に完全なものとしては存在しないものとなるのである。ここに、平和はまさに時間の流れの如きものとして捉えられねばならない。平和は、時間でいうところの、現在にあたる。ミヒャエル・エンデのように言えば「見ようとしても見えないもの」である。現在を見ようとしても、実際見えるのは過去ばかりである。平和を目指すのであれば、常に未来を、平和そのものを考え、実践し続けなければならないのだ。それは人間が存在する限り、たどり着くことの出来ない場所でもある。このように考えてみれば、カントより少し深く、平和は先ず、次のように考察することが出来る。「平和とは、あらゆる敵意のない状態を目指す、思想と実行の継続である」と。そして恐らく、この継続の証が、人生の様々な問題に対する複合的な解答、つまり文化なのである。

本論は、現在の私にとってしか正しいものであり得ない。また、たどり着くことの出来ない場所としているのだから、私の思潮を止めて記述したものに過ぎない。

しかし、昨今の平和という言葉の使われようを見ていると、なにやら間違っているように思えてならないのだ。単に戦争反対という理由のみで使用されるべき言葉ではないと思うのである。平和という言葉はもっと重く、深いものであると感じているのだ。「平和祈念公園」という名称にも、正確ではない、と感じてしまうのだ。勿論、使用する側に悪意などないことは解るし、戦争体験を伝えることは重要である。伝えられた情報があればこそ、私は戦争や軍隊には強く反対する者である。しかし、「平和教育」と言われているものも、もっと深いところで「平和」を捉えて良いのではないか。このままでは、いつまでたっても、世に戦が絶えることなく、武力強化だの、戦争反対だのの声が響き続けるような気がしてならない。本論は、私のこうした感情を基盤に書かれたものであることを、最後にお断りさせていただく次第である。