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悪魔の理論

「悪魔は認識の最も旧い友である」 ニーチェ

姿形を変えてはいるものの、「悪魔」は、世界中に存在している。神よりも悪魔のほうが多く存在しているとも言える。多くの人にとって神は、ただ1つのものでしかないが、あらゆる物が悪に成り得るのである。つまり悪魔は、人の理性が生んだ存在である。悪魔は、ある事物を「悪」であることを決定付けるため、あるいはその反対に、善を絶対化するために生まれ、存在させられてきたのである。

スティーブ・ビコの言葉、「宗教とは、あらゆるものを創造したとされる最高存在あるいは力と結びつこうとする、人間の企てである」 とするならば、悪魔も神も所詮は企てでしかない。この企ては、無信仰の者にとっては神話的で霊的であり、信者にとっては現実的なものとなる。ところがこの両者は、意外ではあるが、たいした違いは無い。そもそも神話は、一個の人間同様に、自立した存在となりうるからである。であるので、悪魔が演じる役割は決定的であり、その影響力は現在も非常に強い。殊にキリスト教文化圏においては。

面白いことに悪魔は、多神教ではあまり存在しない。多神教の場合は、複数の神が競合し、時に神が悪にも成り得るので、悪魔を存在させた悪の説明を必要としないのである。しかし一神教はそうはいかない。神は唯一の存在であり、すべての源を神とするならば、「善」だけではなく、「悪」の源も神になってしまうのである。これでは「企て」としてお粗末である。「悪」の存在を説明するための逃げの理論が必要であり、この逃げの理論が「悪魔」である。どのような作家が挑戦してみても、物語の解決策はこれしかない。ただし、神は全能であるのに、神より劣る悪魔が、世を混乱させる必要性について辻褄を合わせねばならない。1つの宗教には多くの解釈が存在する理由の根源は、この辻褄の相違によるものである場合が多い。

「救済」に重点を置く宗教にとっては、悪魔はことのほか重要な存在となる。何故か?信じれば救われるからだ。つまり、信者のみが救済されるのであるから、信じぬ者は闇の支配者である悪魔に委ねられる。とすれば、悪魔の支配区域は神をも凌駕する。悪の力はますます強大になり、神ではなく、悪魔こそが創造者であるという悪魔崇拝も存在することは必然であったのかも知れない。

以上はキリスト教を中心にした悪魔についての基本考察であるが、東洋、殊に仏教や古代中国の教えでは、絶対的な神は存在しない。どちらかといえば多神教なのであるが、神の定義はもっと曖昧で、自然のみならず、人も神として崇められることも少なくない。神への接し方も様々で、これはそれぞれの神により異なる。ある神に対して人は肖ろうとするが、別の神にはただ敬うばかりで、ひたすら願いのみを聞かされ続ける神もある。

よって善と悪、人の生き方は、神の存在しない「教え」として説かれることとなる。孔子の教えなどがその例であり、日本における仏教、親鸞や道元なども広義では同様と言えるであろう。ただこうした社会においては権力者による善悪も同時に存在してしまうのが厄介なところである。善と悪の定義は絶対的ではなく、ある日を境に逆転してしまうこともありうるのである。

この厄介さから逃れるためではないのであろうが、「教え」ではなく「世界観」を作り出すこともある。例えば地獄という世界だ。悪を知らしめるために「地獄」は想像されたのであろうが、何ともすばらしい想像力である。イスラムにもキリストにも地獄は存在するが、仏教の地獄は格別だ。地獄は六道の最下層の1つでしかない。審判を下す閻魔大王は怖い存在であるが、悪ではない。地獄には鬼がいるというが、鬼は仕事をこなしているだけであって、悪魔ではない。悪になり得るのは常に人でしかないのである。

このように悪は世界中に存在するが、その理論は極めて多様。もしもすべての悪を語ることが出来れば、人のすべてを知りつくしている、と言っても過言ではあるまい。