私がミシェル・フーコーの名前を知ったのは、寺山修司のエッセイや対談集からであった。フーコーは現代のニーチェやカントと言われる哲学者で、1984年にエイズで亡くなっている。ニーチェとカントの名が用いられるのは、事柄の由来を過去に遡って隠れた事実を明らかにする現実批判の方法が、ニーチェの系譜学を受け継いでいるとされ、またカントの批判哲学が扱った真理・実践・道徳という基本領域に対応する知の批判を成し遂げているからである。
初期のフーコーは、「狂気の歴史」や「臨床医学の誕生」などの著書で、医学の認識論的基盤に対して問題提起を行った。特に「狂気の歴史」は西洋の理性的人間像を根底から覆したといっても過言ではない。今回はその後、1966年に出版された「言葉と物」を中心に考えてみたい。「言葉と物」は主体哲学への徹底的な批判を行った書であり、これによりフーコーは構造主義の代表的思想家として注目されるようになった。
どれだけ注目されたかというと、「言葉と物」は大冊でありながら、パリでは「バゲットのように売れに売れた」本である。とても難解な本なので俄かには信じがたい話だが、売れたのは事実である。本に限らず、あらゆる商品が売れる重要な条件は、商品に感動を引き起こす要素が含まれていることである。「言葉と物」の引き起こす感動、それは間違いなく「不安」である。というのもこの本は、後々まで我々に多くの問題を投げかけているのである。中でも読者を不安にさせるのは、人間の終焉についての言説である。
この本の序文で、フーコーは、
人間とは最近の発明にかかわるものであり、二世紀と経っていない一形象、われわれの知の単なる折り目にすぎないとしてさらに、
だから、知がさらに新しい形象を見出しさえすれば、早晩消え去るものだと続ける。そして最終章の末尾には、
そのときこそ賭けてもいい、人間は波打ち際の砂の表情のように消滅するであろうとある。
この二つの箇所とも、歴史上の人間主義の終焉を指しているのだと考えられる。それを、「人間の終焉」や「人間の消滅」としているのは、効果を狙った修辞学的な表現であろうと考えていた。だが、年々、人間の消滅は修辞学的な表現では済まされないような事態になりつつある。
西欧における、人間概念の中心をなす「自我」は単なる幻にすぎないのではないか、とする問いが東洋思想から起きているし、自我と不可分な「人権」の概念は非西欧社会にどれだけ妥当するのかということも問題になっている。特にこの問題は、欧米諸国や日本が中東で行っている軍事政策に大きく関わりあいがあるように思われる。
また、急速に発達するコンピュータ化が、人間の能力を超えた次元の作業を行いつつあり、一方、医療の世界では人間のクローンも技術的に可能な状態に達している。フーコー自身は予言したつもりはないのだろうが、「知が、さらに新しい形象を見出しさえすれば、早晩消え去るものだ」という言葉は、あまりに的を得ているように思えてならない。恐らく、人間の、人間に対する概念は、日常生活の中で急速に、しかも無意識の内に変化し続けてしまうのであろう。そしてその度、それまでの人間は概念上、消滅するのだ。
もっとも、こうした技術の発達がなくとも、温暖化などにより、21世紀の最後に人間が地球上に存在できているかという深刻な問題も発生している。
フーコーは晩年、「主体の回復」を説いており、そこから、彼の人間や主体の消滅論は、西欧的自我に対する厳しい自己批判であったことが伺える。私は、今こそ日本の哲学はフーコーの「言葉と物」を見直すべきだと考えている。東洋に位置する西欧的な社会での自我は、常に宙ぶらりんか、存在していないかのどちらかであると思うからである。