批判について
これから先、私は多くのことについて批判してゆくことになるであろう。勿論批判ばかりが目立つような誌面にするつもりは毛頭ないのだが、批判抜きに語ることの出来るものはそう多くはない。ここでは批判についての私の考えを述べておく必要がある。なぜなら批判を行う者は、批判について何らかの明確な考えをもっていなければならず、それを説明出来ないということがあってはならないからである。
今さら言うまでもないことなのだが、すべて批判というものは相手を悪しざまに罵ったり、排撃したり、あるいは何らかのレッテルを貼ることで相手を克服したと思い上がることではない。このことはいわば批判の常識である。にも拘らず、実際はこの常識が常識として通用していないところに、現代の思想状況の特異性があるといわねばならないであろう。
このように述べると読者は何を思い浮かべるだろうか。画像として日常生活に飛び込んでくる、まるで子供の口ゲンカのような口論、また年齢にもよるだろうが、60年代の怒れる若者が街に飛び出した光景を思い出される方もおられるのではないだろうか。現代日本における批判とは、良くも悪くも、そのほとんどが相手方の否定であり、追放であり、懲罰であることが多い。批判とは、否定ではなく識別であり、追放ではなく摂取であり、懲罰ではなく活用である。このことが忘却されてしまっている。
この忘却が続く限り、現在のあらゆる批評家の抱えている仕事に結末を期待することは不可能に近い。なぜなら、人々の関心の高い議論や話題はそれ程に人々の感情をかき立たせ、心をいらだたせるものだからである。無能な、名前だけの批評家が溢れている原因はここにあるのではないかと私は考えている。
自戒の意味もこめて、以上「批判」についての小論を終わる。