Philosophy目次へ  TOPページへ

事実と真実

「真実の最大の敵は事実である」寺山修司

宇宙の性質にすぎないということを証明してみせたのは、スティーブン・ホーキングであった。我々人間は確かにあらゆる事物の「性質」というものを感じることしか出来ない。「性質」を証明してみせようとしたところで、その証明がすべての人に認められる確証は無い。例えば、より音質の良いオーディオという謳い文句で登場した製品であっても、それまで自分が使っていたもののほうが音は良い、という人もいるであろう。こうした「性質」の証明を確証に近いものにするために、人は偉大な発明を過去にやってのける。その発明とは、数学である。

発明により、時間という宇宙の性質のひとつを人類は時計の中に閉じ込めることに成功した。もはや人類は時計の中の時間を信じて疑わないので、今日はえらく時間が立つのが遅いと感じていても、時計を見て予想以上に針が回っていたなら、自分の感覚を修正してしまうのである。だが、ホーキングより以前、理論は感覚的性質を説明出来るものではないということは、すでにシュレーディンガーにより証明済みである。

考えられることは、あらゆる数字は物事の性質を示してみせる目安に過ぎないということである。ホーキングの述べるように時間が宇宙の性質であるのなら、速度と距離も同様に宇宙の性質である。数字が目安に過ぎないことは、実は数学それ自体が充分に証明してくれている。例えば、円周率。数学はこの数値を割り切ることは出来ない。π、それはあくまで目安に過ぎない。円周率を小学生に教えるとき、教師は数学は絶対なものではないことも教えなければならない。

いうものが目安でしかないのだとしたら、世間に溢れる数字とは何になるのか。私が最も疑問であったのはこのことである。「午前1時32分、殺人事件発生」、この1時32分という目安は何か。「死傷者は2000人をこえた」、この2000人とは。極論かもしれないが、あえて述べさせてもらえば、これら数字の示すものは「事実」ではなかろうか。こう考えたとき、「事実」とは目安であると私には思われたのである。目安である以上、それは何らかの目安でなければならない。何らかとは「真実」ではないのか。「真実はひとつ」とよく言うが、それは複数の「真実」をひとつの目安としての事実に置き換える必要性から生じた言葉であろう。ひとつの事件を複数の人が目撃していたら、そこには複数の真実が存在しているが、人類にとって歴史はひとつであるほうが望ましいのである。かつて寺山修司は「真実の最大の敵は事実である」と言った。今、私はこう定義しよう。「事実」とは「真実」の目安である。

ころから気になって仕方がなかったことばがある。そのことばとは、宮沢賢治の詩集「春と修羅、序」の中にある次の一文である。

記録や歴史 あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料〔データ〕といつしよに
(因果の時空的制約のもと)
われわれがかんじているのに過ぎません
宮沢賢治のこのことばを、私は完全に理解していないのかも知れない。「事実」と「真実」とは自然科学的にも社会科学的にもあまりにその定義が曖昧なままである。数少ない読者のご教示をいただければ幸いである。また、これをお読みの編集者諸君。ご担当の雑誌で特集にしてみては如何。