自殺論
「なぜ、人間は血のつまったただの袋ではないのだろうか?」フランツ・カフカ
この「氷点下の思潮」を10年近く前に始めた頃から、毎年数件、「自殺を考えている」という内容のメールを頂戴している。
3年前私は、「自殺」という作品の中で、「自殺を考えぬ者は 敗残者でしかない」と書いた。それ以後、私への自殺志願者からの声は、確実に増したように感じている。そして今、この「自殺」というテーマについて、作品としてではなく、たとえありきたりの言葉にしかならなくとも、書いておかねばならないと感じている。
私が「自殺」をテーマにした本を初めて手にしたのは寺山修司の「青少年のための自殺学入門」だった。そこには自殺機械の作り方、上手な遺書の書き方などが述べられており、自殺までのプロセスが極めて詳細に書かれている。しかし、自殺する機械が完成し、遺書を書いたら、今度はライセンスが必要であると言う。寺山曰く、生活苦でガス管を咥えて死ぬのは「政治的他殺」であり、自殺ではない。ノイローゼで首を吊ったのは「病死」であり、これも自殺ではない。つまり、何かが足りないために死ぬ、ということは自殺にはならない、と彼は言う。確かに足りないものが満たされれば死ぬ必然性はなくなってしまう。こうした場合にはライセンスの取得は叶わないのである。取得は非常に困難であるが、多くの場合が自殺ではなく、「他殺」や「病死」との混同であるのならば、「死んでしまいたい」と考えるにいたった人は、「自分は誰かに殺されかけているのではないか?」ということを真剣に疑ってみる必要がある。
寺山のように考えてみれば、金がなくとも自殺は出来るが、別次元で特権階級者でないと、自殺は出来ない。自殺は、生きる自由と、死ぬ自由とを同等に扱える者にのみ与えられた自己表現となる。しかし私の詩の一節にある「自殺」は、混同された「自殺」を含むものである。
人は、生きることに意味を求める。或いは探す。しかし探求という行為がある時点で、それは未だ見つからないものである。そしてそれは見つかる保証のないものであり、存在すら確認されていないものである。では生きることに意味などないのだ、としてみたら、人はどうするのだろうか?動物的習慣からすると、恐らくは「意味」を求めることを止めようとはしないままに、次の場所を探すのだ。「生」という場所になければ、次は「死」という場所を探す。私は、この「死」という場所で意味を探す行為こそが「自殺」であると考えている。
さて、ここで問題となるのが、それでは「他殺」のような「自殺」は含まれないではないか、ということである。確かに厳密には含まれはしないのだが、外的要因により「死んでしまいたい」と考える時こそ、「生きることに意味も理由もないのであれば、死ぬことの意味とは何か?」を自問する最大の機会でもあるのだ。つまり私の言う「自殺」であり、死を捉える行為は、生きることの意味を問うことを超越することでもある。であるから、私は結論付けるのだ。「自殺を考えぬ者は 敗残者でしかない」と。
以下、作品「自殺」の全文である。
無から有を生み出す愚かさに気付いた者が
有から無へと還り
無から有ではないものを生み出す努力を続けた者が
神の名を唱える
それらすべてに惑わされた者が
生きることを望み
自殺する
だがしかし
自殺を考えぬ者は
敗残者でしかない死を捉えた眼差しが
無の生まれる空間を予言し
真の生を
柔らかく貫く