人が言葉を口にする際、そこには必ず思考能力が働く。その働きの根源は感性であり理性であろう。
理性とは感性にとらわれずに物事を判断する能力のことであり、対して感性とは感覚器官による感受能力のことである。感性から生じる欲求は意志の力により克服出来るものと考えられていることから、感性は理性よりも下位のものとされる。世間一般的には理性と感性とは以上のように定義されているであろう。まるで神話のような定義である。神話とは、正しいと証明されたからではなく、それを認めると便利だからということで認められる説明である。
理性を感性の上位に置いた結果、言語というものはすべて文法という法則により分類、分析されてしまった。言語学という学問の中に、感性は殆ど存在していないと言えるであろう。この状況を批判したのは私の知る限りチョムスキーという言語学者ただ一人である。
彼は表面的なそれまでの文法ばかりの語学を批判し、言葉はどのように生まれるかという言語の深層を研究した学者であった。彼の理論をここで詳しく述べる余裕はないのだが(興味のある方は彼の著書「言語と精神」を読まれることをお勧めする)、その理論によると感性は必ずしも理性の下位にはならないと私は考える。
私の考えによる結論から述べる。理性が感性を生み出すことはないが、感性はそのひと個人の理性をつくり出す。中心となるべきは感性である。感性が個性の内であるのはいうまでもないが、その人の感性が生み出した個人だけの理性こそまさしく真の個性であると言えよう。真の個性とは、例えば子供のころ殴り合いの喧嘩をしてしまい、相手に大怪我をさせてしまったことをひどいことだと感じ、もう二度と人は殴るまいと考えるようなことである。
そこで問題となるのが、個人の理性ではなく、その他の世間的な理性である。トルストイの「人生論」から言葉を借りれば、そうした理性とは、人間により意識され、生命活動の支えとなるべき法則である。あくまで「支え」であり、所詮は「法則」でしかないはずの外部からの理性が個人の理性を必要以上に殺してしまっているように私には思われる。ことに文明社会では。
取違えられた理性は、個性そのものを錯覚させる。忘れないで欲しい。言葉は本来、人の感情や思想を表すための手段なのである。それはすべて「魔法のことば」だ。最後に紹介する古いエスキモーの詩「魔法のことば」が、それを充分に証明してくれるであろう。
ずっと、ずっと大昔金関丈夫著「魔法としてのことば」(思潮社)より
人と動物がともにこの世にすんでいたとき
なりたいと思えば人が動物になれたし
動物が人にもなれた。
だから時には人だったり、時には動物だったり、互いに区別はなかったのだ。
そしてみんなが同じことばをしゃべっていた。
そのときことばは、みな魔法のことばで、
人の頭は、不思議な力をもっていた。
ぐうぜん口をついて出たことばが不思議な結果をおこすことがあった。
ことばは急に生命をもちだし
人が望んだことがほんとうにおこった
したいことを、ただ口に出して言えばよかった。
なぜそんなことができたのか
だれにも説明できなかった。
世界はただ、そういうふうになっていたのだ。