私はこれまで、道徳経よりいくつかを抜粋し、論じてきた。しかし今回は老子の説く「道」を、全体的に捉え、考察してみることにする。
「道」(以下タオとする)という概念は捉えることも、定義することも困難なものであると言える。またそれは観念的に捉えられるものでもなく、タオに達するためには「体得」しか手段がないものと考えられる。孔子や孟子は人の守るべき規範に関心を示し実践していったが、老子や荘子は万物の根源と統一の原理、すなわち、タオに達することを追及していたのである。
我々は日常生活において、物を名前で区別し、それに従い生活を送り、物を判ったように振舞っている。また、大小、高低、善悪といった対立物も区別して生きることが求められている。そこから様々な価値判断が生まれ、悩みや争いなどが生じてくる。ところで老子は、物事の定義を示したのではない。彼は、区別や識別の根拠や根源を問うたのである。そして彼は、名前もない、形もなく、万物が現れてくる可能性を求めて思索を行ったのだ。であるから、道徳経を読むことで、ある物事の定義を得られるものではないのである。
対立物の統一とは、我々が日常生活上で根拠としている二分法的思考からの開放を意味する。我々は物事の善悪、美醜などを判断し、それらを区別、識別し生活しているが、それらすべて物事の本質には、一切の区別はないはずである。二分法的に物事を捉えるという行為は、限定された一時的な判断でしかなく、物事を差別して見ることにもなりかねない。そしてそれは、間違いなく、物事の本質を捉えるものではない。
この主体と客体とを区別して相対的に物事を見る方法は、究極的には、生と死、人間と神といった区別に行き着く。恐らく、この区別を解消する手段として、最高存在を創り上げる宗教は生まれたのである。これに対して、タオの思想は「区別の無い真実」をつかむために、人間の主観性と物事の客観性を統合し、同一性を求めるものである。それは老子、荘子の説く「一」であり、ハイデッガーのいう「充当」であり、西田幾多郎のいう「絶対矛盾の自己同一」であると私は解釈する。
多様性の統一に関しても、物事の多様性の中に共通の解決策があり、対立する多様な極も、結局は同じ位置にあるのだと認識することが重要である。西洋の科学的発想が、多様な極を徹底的に細分化する作業に精力を注いできたのに対して、タオの思想は多様性を一つにまとめることを目指し、多様な万象における相互関係の自覚を促してきたのである。普遍性と特殊性の間には、共通の解決があるものだと仮定すれば、多様性の中に動く全体や統一の力学の究明は必要不可欠であり、それこそがタオの目指すものであると言える。先に道徳経からは定義を得られるものではないと述べたが、タオに到達することで手に入る定義がたった一つあるとすれば、それは恐らく、「世界」の定義である。
老子は、学問をするとき日ごとに蓄積し、タオを行うとき日ごとに減らしていく、と語っているが、これは表層的な知識の獲得に対して根源的な思惟による知の重要性を説いているものである。タオイストの思惟は「即時の前存在論的経験」によっているとされるとき、そこには神秘的な雰囲気が漂うが、それは二項対立や二分法から解放された直接的、直観的経験によるものなのである。
この直観的経験こそ「創造性の泉」であると私は捉えるのである。道徳経は、宗教として解釈され、時に政治的に解釈もされてきたが、私は「創造性の泉」という可能性に、芸術の本質を見出したい。芸術の本質、つまりは、人間、世界、万物の本質が、そこにあるはずである。