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老子・道徳経について

老子の道徳経に初めて出会ったのは、昨年の暮れ、那覇市内にある書店でのことであった。筑摩書房から出されている道徳経の和訳である。道徳経は八十一章まであるのだが、各章それぞれが見開き二ページに収まる程度なので量的にはすらりと読めてしまう程である。だが、その内容はとてもではないがすらりとはいかない。殆どの章が、私にこれまでの自分の価値観、観念といったものを省みる必要性を感じさせるのである。そしてそれらは、総て必要最小限の言葉で書かれていた。

道徳経の思想は僅かに八十一なのだが、世界中の現代思想の殆どと関わりがあるといっても決して過言ではない。例えば、ヘーゲルの弁証法。ヘーゲルの弁証法の動きは内容の無い純粋存在の考えで始まり、すべてのものを具体的絶対の考えに達するというものなのだが、道徳経では、包括的で合理的な絶対という決まった目標への向上運動はない。むしろ西田幾多郎が矛盾の自己同一とよぶ段階がある。矛盾の自己同一において、有と無、美と醜といった対立物は高い総合にあるのではなく、それら自身のなかで互いに同一化されるのである。

また道徳経を読み進むと、プラトンとの比較を余儀なくされる。プラトンは有をイデアと考える。存在の領域、すなわち、フォルムやイデアが唯一のリアリティである。だからこそ、プラトンの宇宙はイデアの論理的体系であり、理性という最高の能力によってのみつかまれるものである。しかしながら、道徳経によるリアリティは形無きもので、始元的直感を通して、直接的、自発的に経験されるのである。だから、論述的理性では、事物の区別無き真実をつかむことは出来ないのである。またプラトンの思惟では、非存在は言い表したり定義することが困難な、知ることの出来ない非現実のものであるが、道徳経では、非存在も真実そのものである。

これらの比較だけではない。ガルシア・マルケスの「百年の孤独」の中に、「物にも魂がある。問題はどのようにしてその魂を揺さぶり起こすかだ」という一文があり、これは彼の芸術における一貫したテーマとも言えるのだが、道徳経にはこうしたことまでもすらりと簡潔に書かれている。また寺山修司が生涯演劇活動で試みた日常性からの脱却、例えば物の名前などで、どうしてそう呼ぶのか最早検討すらされないものの検討なども同様である。私の知る限りでは、さらにユングやハイデッガーも道徳経のなかの一部を深く掘り下げた研究をしていたといえるし、カンディンスキーやコクトーの芸術論、メルロ・ポンティの論文やヴァレリーの格言、パスカルのパンセなど、例をあげればきりがないのではと思う程である。そして何よりも個人的に衝撃的なのは、道徳経がたったの八十一章で、薄っぺらい文庫にもならない量だということである。これまで我々は、詩に何が出来るかということを戦後考え続けてきた。そのたびにこの課題は深さを増し、明確な答えは出せないでいた。何のことはない、紀元前の中国で、たとえそれが一人で書かれたものではない可能性があるにしろ、たった八十一章からなる言葉で、これだけのことが可能だと実証されてしまっている。今後私は、道徳経にあるように、理解しようとせずに理解したもののみを詩にしてゆこうと思う。芸術の本質とは人間の本質のことでもある。それが道徳経の中で簡潔に述べられているのである。