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タオとヨガ

老子と荘子の理論と実践は、現在ではヨガとして伝えられている。ヨガは美容と健康という観点から、最近日本でも女性の間で広まったが、老子と荘子を意識しているインストラクターは殆ど存在しないのではないだろうか。

「道徳経」がヨガの源であると考えられるのは、特に第10章であろう。この第10章こそは、私の最も好きな章でもある。全文を紹介する前に断っておくが、私はヨガには興味はないし、深い知識もない者である。

魂と魄をひとつに統一し、離れないように留めることが出来るか
呼吸を調和集中し、嬰児のようにすることは出来るか
自己の内面の曇った鏡を綺麗にし、何も無いようにすることは出来るか
人々を愛し、国を統治し、しかも知られずにいることは出来るか
無存在の領域に出入りし、自ら行動を起こすことは出来るか
明るい照明を知らなくとも、あらゆる方面へ及ぼすことが出来るか
それを養い、育てよ
生み出しても、所有するな
はたらかせても、頼るな
導いても、統御するな
これは神秘の徳と呼ばれる
この章を熟読すると、ヨガの最高の到達点とは、無知の知に達し、照明をあらゆる方向へ及ぼさせることであることが見えてくる。「魂と魄をひとつに統一し、離れないように留めることが出来るか」という冒頭から5行は、そのためのアプローチであると見てよい。自己を怠惰な思想から解放し、不潔な精神を浄化し、呼吸を集中させ、人は「調和」に達する。これは紛れもなくヨガの技術である。「座禅」の目的もこれと同じと見てよい。

荘子によれば、怠惰な思想から自己を解き放つことは「天の門」を開く行為であり、「天の門」とは「無」である。荘子の言う「無」はここで老子が説く「統一」と同じものであろう。つまり自己の内面的統一は、「無」によってのみ達せられるのである。魂と魄の統一と保持、そして集中と浄化のために「呼吸」という運動を老子は勧めているのである。驚くのは老子がタオの実践方法を具体的に解説していることである。

次に「照明」についてだが、これは荘子による説明が詳しい。曰く、

人の内的宇宙が極めて静であるとき、それは自然の照明を照らす。その者は真実の自己を知っている。真の自己を育む者は現存中に永遠をつかむ。そのとき、人間的要素は消えるが、自然はその者を援助するものとなる
余談だが、老子と荘子を読み比べると、荘子は学術的で解説的である。私は、荘子は読者に「理解」されるために書き、老子は「実践」のために書いたのではないかと感じている。

さて、最後の部分だが、荘子の言葉の後に老子の言葉を連ねてみると分かり易い。
「真の自己を育む者は現存中に永遠をつかむ」
「それを養い、育てよ。生み出しても、所有するな。はたらかせても、頼るな。導いても、統御するな」
達するところは「神秘の徳」であるのだが、これは万物に通ずる「天」による利と考えて差し支えないであろう。

このように見てくると、ヨガを「美容」のために「動作」として行うことの浅はかさが見えてくる。ヨガを真に極めることは、極めて困難なことなのである。