アポリネールの詩の中の一文に、絵画は所詮光の言葉に他ならない、というものがある。確かに、あらゆる色彩は、光によって生み出されるものであるので、絵画を光の言葉と定義することは可能である。
アポリネールのこの言葉を読み、私が真っ先に思ったことは、光の無い状態には色彩が存在しないということである。この場合、無色とは、光の無い空間を指すことになる。我々が日常、無色と言う言葉から連想するのは、透きとおった物体であろう。それらは総て、色の名前が無く、無色透明と呼ばれる。だが、光の無い状態を無色とするならば、これまでの無色透明は、真の無色透明ではなくなる。また、光の無い状態である無色を、我々の視覚がとらえるならば、それは「黒」と映るはずである。真の無色透明とは「黒」である。以上をもって、私はそう定義するに到った。
では、これまでの透きとおった物体につけられた無色透明とは、一体何色になるのであろうか?この疑問が必然的に出てきたのである。考えられることは、人の言語表現の限界を超えた色彩である、ということである。勿論、嘗て或いは現代のいずれかの言語で、日本語で無色透明とするものに、適当な色彩の名称を与えたものがあるかもしれないという予想はされる。だが、多くの言語を見ると、いずれも無色透明とは透きとおった物質を指す。これらの言語は悪く言えば安直に、表現仕切れない色彩を無色透明としてしまっているのである。光が存在する限り、色彩は確かにそこに存在し、それらは光の言葉である絵画の原石のようなものであるのだから、無色としてしまうことは、個人的には安直と思ってしまうのである。また、本来ならば、美学の側面からこの疑問が出てきて然りとも思う。
現代の言語の世界では、もとの単語を簡略化させたものが新語として認知されたりしているが、恐らく我々が普段日常で使用している言葉では、無色透明のような名付け忘れられた単語や、表現しきれていない単語もあり、本来ならばそれらに新たに与えられた言語表現こそが、新語とされるべきではないだろうか。もっともそれは、過去に生きた人びとに勝る言語の感性が無ければならないことであるので、容易なことではないのだが。