歴史教科書をめぐって

学生の頃、今騒がれている、歴史教科書を制作していた団体を敵にまわした。この団体については、既に彼等の制作した教科書が書店で山積みにされ、販売されているので今更述べるまでもない。この市販されている教科書の序文で彼等は「国民に判断してもらいたい」と述べているので、私も一国民として、歴史についての私見をこれから述べさせていただく。

学生の頃、敵対していたと先に述べたが、正確に言えば敵対していたのは、作家の柳美里であった。私は柳氏とその頃随分言葉を交わした。あの時私は、紛れもなく柳氏サイドについていた。

さて、この新しく世に出回った教科書であるが、意外にも市販されてからは批判の声があがらなくなってしまった。もともと、市販されたことの狙いは、市販することで、実際に教科書を国民に提示し、批評家にカウンターパンチを食らわすことにあった。つまり批評家は教科書を制作していた団体を中傷することは出来たが、実際にその内容を批判する力を持ち合わせていなかった。見事にノックアウトされてしまったのである。だが、私は市販された教科書を読み、これが如何に恐ろしいものであるかを実感した。

かつて、この教科書を制作したメンバーに、こんなことを言っていた人がいた。「従軍慰安婦を強制連行したという確かな文書が残っていない。証拠がないのにどうして従軍慰安婦を事実と言えるのか」と。そしてこの教科書には、「従軍慰安婦」という言葉が載ってはいない。もし、このように文書等の確かな証拠が残っていないものを排除して作られた教科書なのであれば、次のような文章が載っていることはまことにもって奇怪である。それは第二次大戦についての章のなかにある「このような困難の中、多くの国民はよく働き、よく戦った。それは戦争の勝利を願っての行動であった」という一文である。当然のことながら、総ての国民が戦争の勝利を願っていたという証拠はどこにもない。恐らく、この一文は当時の人々の一部の「証言」をもとに書かれたものであろう。一部というのは、私自身、戦中から敗戦を予測し、あの戦争が間違いであると述べている証言を知っているからである。ここで湧き上がる疑惑は、教科書制作のメンバーは、従軍慰安婦の強制連行を実際に行ったと証言している元帝国軍人と、その被害者であったと証言している朝鮮の人たちの存在を無視していることになりはしないだろうか、ということである。

この一例だけでも、この教科書は、執筆者の政治的思惑にそって作り上げられたものだと言って差し障りはあるまい。その思惑は、教科書全般を通して見ることが出来る。まず、4ページにわたり、古事記より、初代天皇誕生の神話が紹介され、しばらく捲ると国旗と国歌についてのコラムが載せられている。特に「君が代」の君とは、日本国憲法のもとでは、象徴である天皇を指し、天皇に象徴されるわが国の平和と繁栄を祈念したものと解釈されているそうである。君が代の元歌が万葉集に収められていたことも書かれているのだが、この万葉集のなかの「君が代」は「詠み人知らず」である。つまり、「君」とは必ずしも天皇を指すものではない。そして「君」を「あなた」と解釈する歌も数多く存在することから、「君」を天皇とするのは全くもって独断的解釈に他ならない。彼等は、人文科学である文学を全く無視した形で、証拠なき解釈と独断を平然とやってのけている。

さて独断ではあるが、「君が代」を国歌であると正当化した彼等は、随所に、誇り高き日本の武士、というような余計な形容詞をちりばめながら(私は当時の武士に会ったことはないので、武士の総てが誇り高いかどうか判断しかねるのだが)、「戦争」についてのコラムにたどりつく。ここでは、戦争というものは世界中どこを見ても、これまでに「虐待」が行われなかったものはなく、日本も例外ではない、としている。彼等の本音は実はこの教科書の冒頭ですでに語られている。それは「それぞれの時代には、その時代の善悪の基準があるのだから、現在の基準で裁くのはやめよう」というものである。つまり、戦時下なれば、虐待、殺害は当然のことであると彼等は主張しているのである。

そして次に、「昭和この人」と題して昭和天皇をコラムで紹介している。ここでは、昭和天皇の人生は国民とともに歩まれた人生であったとしている。確かに一部の国民にはそうかも知れないが、あたかも全国民のように語られている。また、如何にその人間性が誠実なものであったかを書いているのだが、一体何故、歴史教科書に昭和天皇の人柄を、それも一部の解釈のみを載せなければならないのか理解に苦しむ。

これだけ策略的な教科書をつくっておきながら、あとがきには中学生に対して、「自分を持て」などと呼びかける。相当たる矛盾があるように思われて仕方がない。

わが国の歴史教科書は、家永三郎氏等の働きにより、南京大虐殺や、侵略という表現を政府に受け入れさせるまでに到った。結局のところ、今回、彼等が「新しい歴史教科書」と銘打って作成したものは、古い教科書の再生にすぎない。そればかりか、天皇を中心とした、日本人の誇りと尊厳なるものの考え方の押し売り、或いは詐欺である。この詐欺について関連のない事柄はどうでも良いことなので、彼等は「沖縄本土復帰」という言葉を載せているにも関わらず、沖縄が何故、米国の占領下に置かれたか、何時から占領下となったのかは書いていない。また、さも当然のように、南京大虐殺も従軍慰安婦という言葉も載ってはいなく、彼ら自身の言葉で戦争が間違いであるとは、一言も書かれていない。

歴史とは、E・H・カーの言うように「現在と過去との、尽きることを知らぬ対話」である。確かにそれぞれの時代には、その時代ごとに善悪の基準があったといえる。だからこそ、現在にも善悪の判断が存在するのである。歴史は、こうした善悪の判断を含め、過去と現在との対話でなければならぬ。この教科書を読み、実感したことはまさにこのことである。自己中心的に作り上げられた歴史、過去の声が届かない歴史は、最早歴史ではない。以上の実感により、私はこの教科書を一国民として、教科書と認めることは出来ないと判断するものである。