沖縄米軍事情

沖縄に移住して、4年目に入る。移住以前にも米軍基地問題には関心があり、数冊の書籍や少ない報道から情報を得ていたが、実際沖縄で生活してみると、求めなくとも基地に関する問題が聞こえてくる。また、それを調べてみれば、今までには考えられないような情報も入手することになる。ここでは、一部であるが、私の知り得た沖縄米軍事情を述べてみたい。

私の知る限り、沖縄の人々はこれまでに4度、大規模な反米軍活動を行っている。1度目は、1950年代の半ばから後半にかけてで、アメリカ合衆国が私有地を強制収用したことに対して、2度目は1970年代、ベトナム戦争に反対、3度目は1995年、3人の米兵が女子小学生を暴行したことに対して、4度目は2004年、沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落したことに対してだ。勿論これは私の判断する「大規模」であり、実際の抵抗運動が数え切れないほどであることはいうまでもない。

良く知られているように、日本に駐留する米軍の75%が沖縄にあり、基地の数は38もある。恐らく、アジア各国で、これほどまでに米軍に関する問題が噴出している地域は他にはあるまい。1995年、小学生への暴行事件が起きたとき、沖縄の米兵は2万7千人を超す人数であった。もちろん、これら米兵の家族、軍属の労働者は別での数値である。大学や病院も設置されているのだから、労働者の数も相当であると私は認識している。私が個人的に重要視しているのは、これら米軍関係者と沖縄の女性との間に産まれた子の数である。現在、合計約2万人と言われており、近年は毎年200人強の人数で増えているようである。今の数値では10年で2000人、つまり2万人というのは、本土復帰以前の人数が大多数なのであろう。さらに年間200人強というのは少なく見積もって米兵100人に1人の割合である。この数は、単に産まれてきた子の数ではない。父親は任期が終了すればアメリカに帰るのである。つまり父親に見捨てられた子である。ほとんどの父親は教育費も払わずに帰国する。さらに、日本とアメリカとの間では、こうした子供に対する教育を支援する法的措置は取られていないのだ。イギリスやドイツでは、アメリカと交渉し、NATOの軍人が任地に残した家族を養わせる協定を結んでいる。私自身、米軍基地には強く反対するのだが、反対の風潮が強まれば強まるほど、こうした子供たちが気がかりでならないのである。米軍は今すぐ出て行けと言いたいのだが、それでは済まされない状況があるのもまた現実なのである。

1945年から今日まで、沖縄はアメリカの軍事植民地である。その代表的な例が琉球政府の誕生であろう。1947年に施行された日本国憲法を沖縄にも適用せよという感情を抑えるために琉球政府は作られた。この琉球政府は、アメリカの琉球行政府代表が拒否権を発動すれば、それにすべて従わねばならないというものであった。行政府代表は常に陸軍中将である。最悪の事態は、1957年の那覇市長選挙のことであろう。瀬長氏が圧倒的人気で当選したにも関わらず、行政府代表によって解任されたのである。同氏が私有地の強制収用に対する運動の指導者であったからだ。また、琉球政府主席、今で言う県知事を一般選挙で選ぶことが認められたのは1968年のことである。それまでは任命制であったのだ。なぜ、68年だったのか?理由は単純で、ベトナム戦争に対する反対運動を抑えきれなかったのである。結果、72年、沖縄を軍事支配することが困難であると理由から日本国へ復帰することとなる。

返還前の北谷

返還の条件は当時まったく未公表で、最近になってようやく公表されつつあるが、これによって沖縄の米軍施設はそのまま残った。沖縄駐留軍は、他県の米軍基地同様、日米安全保障条約の傘下となったのである。しかし、安保条約では米軍が日本国外に出撃するとき日本政府に事前協議を行うこととなっているが、沖縄に関する限り、協議の必要はないと非公開で合意されており、アメリカは事前協議の義務を免れているのである。返還の実質とは、沖縄の人々に対する責任を日本政府に押し付け、軍事行動はそのままというものなのである。

この返還の結果、72年から90年にかけて多くの点でアメリカの軍事支配は絶頂期となる。何しろ米軍は駐留していることに対する沖縄の人々の感情に対する責任の一切を免れた。また、沖縄の観光産業がまだ現在のように確立していたわけでもなく、県外の国民には沖縄の風景というものは、サトウキビ畑が広がる遠い南の田舎であり、しかも高度成長期にバブルの絶頂がもたらす平和ボケ、自分たちの収入は増え、生活も豊かになり、県外からの視線は皆無に近い。このことを裏付けるかのように、沖縄県議会が72年から2000年までの間、年間平均5回、合計152回の米軍基地の撤去または削減の要求を出しても、東京にも、ワシントンにも一切無視され続けてきた。先ほど、私は72年から90年としたが、表向きは2000年、または1995年なのかもしれない。ではなぜ、90年としたか。それは90年12月、大田昌秀氏が知事に当選したからである。

大田知事はすべての米軍基地を移転させることを公約としていた。しかし、知事になってすぐ、基地撤退を諦めざる負えなくなる。湾岸戦争が勃発し、アメリカにとって沖縄の価値が急激に上がったためだ。大田知事がアメリカに何度基地に関する協議を要求しても、「中央政府とのみ協議する」という返答があるだけで、対話の姿勢すら見せはしなかった。この状況が95年に一変する。理由は二つ。一つは同年2月、ペンタゴンが発表したナイ報告書である。そこにはアメリカ軍が少なくとも今後20年の間、日本および韓国での米軍配備の継続が記されていた。ソビエト連邦の崩壊による冷戦終了から、基地削減を望んでいた沖縄にとってはあまりに一方的な報告であったといえる。二つ目はその約半年後に起きた3人の米兵による女子小学生への暴行事件だ。アメリカはこの事件を「悲惨な事件だが、個別的なもの」として扱った。この事件とナイ報告書とを合わせて、沖縄県民の不安は一気に加速する。これから20年、この状況が無条件のまま続くと。この後、大田知事精力的な活動を展開し、沖縄で最も支持される政治家は、日米両政府にとっては最も邪魔な存在となってゆく。大田の行動は例えば、96年の県民投票の実施し、有権者の60%が基地削減を望んでいることを明らかにし、法的手段にも訴えた。96年には最高裁で沖縄に押し付けてきた重荷を日本国で分かち合うべきだと訴えている。また、私有地の賃貸契約延長の書類にサインを拒むこともした。しかし、日本政府は即座に新たな法律を作成、書類の権限を自治体政府から中央政府に移行してしまう。

大衆もこれと同時に動いている。最も大きなものは95年10月宜野湾市の海浜公園での集会だ。少女への暴行への抗議運動として行われたこの集会には、8万5千人が集まっている。勿論県外からの参加もあるのだろうが、交通手段に電車のない沖縄で8万人を超える集会というのは、今の私には容易に想像が出来ない。この集会は、日本全国で見ても60年安保闘争に次ぐ規模の運動であると言われている。県民の行動と知事の行動は当然、日米両政府の神経を尖らせた。沖縄に関する特別行動委員会を設置し、米軍の訓練や活動が沖縄県民に与える影響を考慮しようというものであった。結果、27箇所の軍事施設を再編成または削減するという案が出されたが、普天間飛行場の辺野古移転もこのとき考え出された。現地調査などは一切行わず、「何かをしている」というアピールでしかないものであった。

アメリカは同時期、日米防衛協力のための指針の調印を成功させている。これは日米安保条約の改訂版ともいえるもので、アメリカ政府が緊急事態であると判断すれば、日本国内の道路、港、空港、病院など様々な施設を軍事利用できるというものであった。いわばアメリカは、外国である日本に戒厳令を発令することが可能なのである。アメリカとしては、冷戦後の米軍の覇権を維持することが最大の目的であったろうと思われる。いずれにしても、日本はこのアメリカに足並みを揃えた。当時の小渕首相や自民党が沖縄県知事選挙で稲嶺氏を異常なほど強く支持したのも理解ができる。もう大田氏は、完全に邪魔者でしかなかったのだ。稲嶺氏は大田氏が基地問題にのみ固執するあまり、経済問題を大きくしているとし、雇用問題や県の財政の改革を訴えた。確かに、98年、政府は大田知事との接触を控え、沖縄に対する通常の補助金までも打ち切った。こうしたことが影響もしているのであろう。沖縄の失業率は全国平均の2倍、9.2%であった。稲嶺氏は選挙活動にあたり、普天間飛行場の名護への移転に賛成している。一応彼は、使用期限や、民間との併用なども盛り込み埋め合わせを行っているが、選挙が終わると、アメリカは期限をつけることなど出来ないと発表、日本政府はこれを受け入れている。結局稲嶺氏が当選し、知事となったのだが、彼は日米両政府にとってはまずまずの好感を得ていたようである。知事となってすぐに、新しくオープンした平和記念資料館の展示物を密かに差し替えているのだ。日本軍が沖縄の民間人に行った残虐行為を描いた作品が差し障りのないものに変えられており、これには日本政府が喜んでいる。沖縄サミット開催中、稲嶺知事はクリントン大統領に平和記念公園でスピーチを行わせている。大田前知事は礎の建立の精神に反すると、これを強く批判した。平和の礎は、軍人民間人、韓国、アメリカなど出身地を問わずに戦没者の名が刻まれたもので、大田知事の功績の一つでもある。

稲嶺知事はいわば基地賛成派の1人として日米両政府に受け入れられていた。各市町村長選挙にも当然保守派を送り込み、浦添市長選挙などでは港の軍事利用に賛成する者が当選する有様である。しかしそんな彼らでさえ、2000年の暮れごろから考えが変ってくる。同時期にアメリカ国防大学が発表したアーミテージ報告に記されている内容は、アメリカが日本に軍国化を促すものであり、世界各地のアメリカが参加している紛争地への同行を求めるものであった。この報告書を作成したアーミテージとウォルフォイッツの狙いはその後発足するブッシュ政権での地位であり、事実ポストを得ているのだが、また、日本に第9条の廃止を呼びかけることであった。

こうした動きと、変らない現実に失望もあったのであろう、沖縄県議会は2001年1月、史上初めての全会一致で、自民党議員までもが賛同して、沖縄からの基地撤退を求める決議案を採択した。稲嶺知事は、当時の河野外相に「県民の我慢の限界」としてこれを提出した。この時期、つまりサミット開催の時期、2000年7月には独立記念日を祝って泥酔した米兵が民家に侵入、14歳の少女のベッドに潜り込んだ。悲鳴を聞き、母親が通報、寝ているところを米兵は逮捕されている。1週間後、沖縄市で米兵の運転する車が歩行者を轢き、そのまま逃走した。最も警戒を強めるはすのサミット開催直前ですら、米軍は兵隊の行動を管理してはいなかったのである。こうした事件から米軍側に翌年の1月5日まで飲酒目的の深夜の外出を禁止することを約束させたが、外出解禁になってすぐの1月9日、米兵が16歳の少女のスカートを持ち上げ、カメラで撮影する事件が発生した。付近にいた少年たちが米兵を商店に追い詰め、逮捕されるまで押さえつけていた事件である。アーミテージ報告と、実際の事件が、保守派の考えすらも変えてしまったのだ。因みに、スカート盗撮犯は約2週間後、罰金5万円を払って釈放されているが、この釈放までの間の1月14日、国頭村のバーで、米兵1名と軍属1名が、店の59歳の女性店長に「喧嘩は外でやってくれ」と言われ、彼女に暴力をふるい、怪我をさせてしまうのだ。

こうしたことを書き出せばきりがないのだが、それでも米軍の将校は「米兵による犯罪の発生はそれほど多くはない」などと発言する。議会が基地撤退を全会一致で採択した数日後、ヘイルストン中将は個人的に複数の幹部クラスの米兵に「これまで以上に規律を厳しく守るように」と電子メールを送り、そのメールに「あいつら(稲嶺知事や副知事)は県議が採択されるのを黙って何もせずに見ていた。頭の悪い腰抜けだ」と付け加えた。これが琉球新報に漏れ、報道されたのである。稲嶺知事は確実に米軍嫌いになったことであろうと思う。

その後、米軍機の部品落下や米兵による事件が続き、2004年、辺野古沖では移設工事のためのボーリング調査に反対する座り込みが行われ、8月には沖縄国際大学キャンパス内に米軍ヘリが墜落炎上する。また、2001年ごろから、テレビドラマの影響などで、沖縄が注目されるようになった。これまで沖縄に関心の全くなかった人々が沖縄に足を運び、観光ガイドに出ているひめゆりの塔などを訪れる。修学旅行でやってくる中高生も急増した。しかしだ、沖縄県はそれでもまだ、観光産業を中心とした発展を目指す足がかりを得たにすぎず、今後の発展と環境とのバランス、第一次産業の発展のありかたなど、展望らしいものは何一つ出ておらず、県民所得は相変わらず全国最下位である。2005年現在、恐らくこれから2010年までの5年間で確立させなければならないことが多すぎるのだ。加えて膨大な基地問題。我々はまだ、出発点を見つける手がかりを得たにすぎないのである。

以上長々と書いてみたが、まだまだ書き足りないくらいである。特に20世紀、どれだけのことが県外で報道されてきたか、疑問である。私はここに書いたこと以上のことを知りながら、ヘリ墜落事故直後、新聞紙面上に「県民感情は怒と恨に支配されているが、怒と恨を乗り越えたところに真の理性がある。変ることの無かった安保条約を今変えねばならないのである。我々の感情も急がねばならない」と述べたのだ。「甘い」という批判を多く頂戴したが、それも当然であろうとも思う。私自身、感情のみで語らなくとも、もういい加減米軍は出て行くべきなのだという思いが、日を追うごとに強くなっていく。